石巻市復興を考える市民の会公式掲示板「その4」

石巻市復興を考える市民の会 公式掲示板4

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大川小、避難経路の誤解か 河北新報ON LINE NEWSより - 市民の会.

2018/02/23 (Fri) 21:14:27
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2018年1月11日付け 河北新報 ON LINE NEWS で 「止まった刻(とき)」 「検証・大川小事故」というコラムに「大川小避難経路、最短ルートと誤解か、行き止まり知らず進んだ可能性」と題して検証記事が掲載された。以下に転載する。

東日本大震災の津波で全校児童108人中、74人が犠牲となり、児童を保護していた教職員10人が死亡した石巻市大川小の避難ルートについて、教職員が北上川の堤防道路(三角地帯)への最短ルートと誤解し、行き止まりを知らずに裏道を進んだ可能性が高いことが、河北新報社の検証で分かった。児童の足取りを巡っては「なぜ、津波に向かって進んだのか」「なぜ、県道に直接出ず、遠回りしたのか」など長い間謎だった。(大川小事故取材班)

 2011年3月11日午後2時46分の地震発生後、教職員と児童は約45分間、校庭にとどまり、津波襲来の約1分前までに校庭を徒歩で出発した=図=。証言によると、その後、釜谷交流会館の駐車場を横切っている際に県道から戻ってきた教頭が「津波が来ているから急いで」と呼び掛け、児童の一部は途中で右折し、民家の間を通って県道に出ようとした。
 先頭付近にいた当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=は県道に出る直前、津波に気付いて引き返し、裏山を約3メートル登った辺りで波にのまれた。只野さんらは「行き止まり」を避け、右折するルートを選んだ。行き止まり付近では児童34人の遺体が見つかった。
 地元住民によると、裏道は1976年12月に新北上大橋が開通するまで、軽トラックが通れる道幅があった。開通後も幅1メートル弱の小道は残り、近所の住民が生活道として利用していたが、震災前にはツタや雑草がうっそうと生い茂り、行き止まり状態だった。地元の女性は「無理をすれば通れたが、子どもを大勢連れて通る道ではない」と話す。
 三角地帯は学校より5~6メートルほど高い。教頭は地元住民と相談し、三角地帯行きを決めた。住民のアドバイスなどを基に、土地勘のない教職員が裏道を先導した可能性があるほか、「交通量が多い県道を避けた」との見方もある。
 大川小は07年度に危機管理マニュアルを改定し、「津波」の文言を初めて盛り込んだ。10年度の改定でも校庭からの避難場所については「近隣の空き地・公園等」を踏襲し、具体的な場所を指定しなかった。
 仮に三角地帯にたどり着けたとしても、付近は高さ2~3メートルの津波に襲われた。マニュアルの不備に加え、震災当日の(1)避難先(2)避難ルート(3)出発時刻―など二重三重の判断ミスが重なり、「大川小の悲劇」につながったと言える。

<主体的決定なし/遺族らでつくる大川伝承の会共同代表の佐藤敏郎さん(54)の話>
 先生たちは「三角地帯に行ける」と思って行ったのかもしれないが、そもそもなぜ45分間も校庭にとどまり続けたのか。学校管理下の避難行動にもかかわらず、学校側の主体的な意思決定がなかったことが原因の全てだ。

記事は以上。

Re: 大川小、避難経路の誤解か 河北新報ON LINE NEWSより - 市民の会.

2018/02/23 (Fri) 21:25:04
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この記事の主眼点は教員が避難経路の選定を間違えたというものだが、その他にも
【(1)避難先(2)避難ルート(3)出発時刻-など二重三重のミスが重なり、「大川小の悲劇」につながったと言える。】
と指摘している。この(1)(2)(3)の指摘は従来、市民の会が指摘してきたことと変わらない。
よく言われる原因としては(3)の「避難出発時刻」の遅延が最大の原因として取り上げられている。しかし、市民の会が一貫して主張している原因としては、それ以前に、柏葉校長が着任してから一度も(1)避難先、(2)避難ルート、を決める会議が開かれなかったことである。事前の会議で(1)(2)が決まっていたら(3)の出発時刻の遅延はなかっただろうと考えられる。
 このことから得られる教訓は、こと防災に関しては事前に避難先、避難ルートなど、職員間で意思を統一しておくことの重要性である。なおかつ、会議を重ねることで職員一人ひとりに防災の意識が徹底され、それはいざという時に必ず生きてくるということである。大川小学校の事件は学校管理者の重大な職務怠慢および現場のリーダー不在という無責任体制に帰着すると思うが、これから大災害の多発が予測されている日本、とりわけ東海地震、東南海地震、南海地震の被害が予測される太平洋岸の学校では、このような事のないよう特に気をつけてほしい。

Re: 大川小、避難経路の誤解か 河北新報ON LINE NEWSより - 市民の会 ぽんぽこ亭本部

2018/02/24 (Sat) 12:50:43
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災害時に発生した被害の原因を探っていくと幾つかの大きな要素に行き着きます。本件は「人による被害」と評価でき、言ってしまえば人災=柏葉校長という存在が被害発生させた最大要素の一つであったと解釈するべきだと市民の会は考えてきました。

知っている人は知っている事実ですが、あの日、大川小学校にはスクールバスが待機していました。震災の発生以降、バスの管理会社はバス運転手に「逃げろ」という指示を出しています。しかしバスの運転手は「子供たちを置いて自分一人で逃げることはできない」という趣旨の発言を無線で会社に返信し、尚且つ「学校の先生達がどのように判断するか」を、待ってから自分の避難行動を考える旨の返信をしていたはずです。平時であれば許されないことですが、あの時は「1000年に一度あるかないか」の有事だったのです。校庭で待機していた子供たちをスクールバスにぎゅうぎゅう詰めにして雄勝峠を駆け上がれば、救えた命でした。


不可抗力など、どこにも存在しておりません。助けることができなかったのではなく、助けようと思えば助けることが可能だった事案であって「助かろうとしなかった」に過ぎません。子供たちをスクールバスにぎゅうぎゅう詰めに乗せて雄勝峠をバスで駆け上がることが「そんなに困難な行為」なのですか?

違うでしょう!

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しかしそれは実は大きな問題ではないのです。スクールバスで雄勝峠を駆け上がることをせずとも、小学校の「裏山」にある斜面の緩やかなコースを徒歩でゆっくりと登ってゆけば安全な小高い山の上まで児童どころか地域の大人たちも全員、避難できたのです。


なぜ、あの日、あの地域の大人たちは正しい判断と決断ができなかったのでしょうか?


そこに「最大」の問題点が潜んでいるのです。

あの日、大川小学校には柏葉校長は居りませんでした。しかし市民の会は思うのです。あの日、柏葉校長が居たとしても適切、的確な避難行動など選択できなかったであろうと。そもそも。彼は大川小学校の「校長」なのです。教務主任や教頭ではなく避難計画だとか避難訓練など子供たちと教員の命を護るための「あらゆる想定」は、学校の大統領たる「校長」が全責任を負って練り上げるべき性質のものです。それを柏葉校長は放棄していました。無責任な発言を繰り返す野次馬というのは県内にも県外にも沢山存在しており「1000年に一度の巨大災害など想定できるはずがない。あれは運命だったんだ。校長教員を責めるのはお門違いというものだ」と。


それは大きな間違いですね。

想定できない1000年に一度の巨大災害だというのなら、では「なぜ?」戸倉小学校の子供たちと教職員は生き延びたのでしょうか?逆から言えば、なぜ大川小学校だけが、あれほどの壊滅的被害を被ったのか?


そこを考えなければ大川小学校の悲劇の本質は見えないはずです。

1000年に一度の巨大災害だから「想定外」だと無責任な人間は繰り返し発言します。しかし、2011年当時、地元ローカル報道に於いてはTVであっても新聞であっても「宮城県沖地震発生」が想定されており、シュミレーションされた被害発生予測も含めた報道が為されておりました。一般の市民にすぎない市民の会の「藤田」でさえ、当時、地域内の住民らと宮城県沖地震発生した場合、地域はどのようにすればよいのか?という話し合いをしたほどです。まして児童を預かる地位にある「小学校の校長」が、それを認識、意識していなかったはずがありません。目の前に大きな河がある大川小学校の校長であれば「避難をどうするべきか?」を考え、そして具体的計画を手元に持っていなければなりませんでした。

ところが大川小学校は柏葉校長以下、具体的な避難計画どころか、口頭による教員らとの避難計画について話し合うようなこともありませんでした。

他人様が苦労して育ててきた児童を預かっている小学校の「校長」として、これほど不適格な人物がおりますか?


だから大川小学校の悲劇は「人災」なのです。

https://youtu.be/Ooa5vhWgSZM

この動画は、渡波地区にあった「はまなす保育所」です。

震災前、保育所の園長(所長が正しい肩書ですが)は津波襲来を想定していました。万が一の津波襲来の場合、現状の装備と保育士では園児を助け出すことはできない、と園長は判断していたのです。保護者が迎えにくることができず保育園に残る園児は複数名いるはずだと。この園児を安全に助け出す方法はないものか?と。園長が思いついたのはスーパーマーケットの業務用運搬カートとして使用されている「ストックカート」を保育園に用意することでした。乳飲み子数名を「一人」の保育士が同時に助け出せるtoolは、このストックカート以外には無いだろうと思いついたというのです(貼付写真参照)。ところがストックカート購入を石巻市役所に申請するも、市役所は園長の言わんとする真意を理解できず、購入し保育所に配備されるまで数年が経過していたとも言います。

園長は諦めませんでした。何度も市役所の担当部局と話し合い、遂に震災前にストックカートを準備させたのです。園長は保育士らと万が一の地震、津波襲来時にはこのストックカートを使って園児(というよりは乳飲み子)をひとまとめにして逃げることを申し合わせていたのです。


そして園長の「想定していた通り」の巨大地震が発生し、園長はストックカートを利用して迎えの来ない園児らを乗せ、「走って走って」渡波公民館に逃げ込んだのでした。


柏葉校長と、はまなす保育所園長との「違い」って、結局、なんでしょうか?


組織の「トップ」に就任する「人物」のリーダー特性に注目せざるを得ません。


すべきことを「した」トップと、しなければいけなかったことを「まったくしていなかった」トップとの違い。


組織の「長」選びは、間違ってはいけないのです。

間違えば、最後は「誰かが死ぬ」という最悪の結果を惹起するからなのです。


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180224-00000051-jij-soci

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