石巻市復興を考える市民の会公式掲示板「その4」

石巻市復興を考える市民の会 公式掲示板4

261920

東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/26 (Mon) 18:19:57
*.home.ne.jp

東日本大震災第7回追悼集会を団地自治会と市民の会の共催で行いました。場所は大森第四団地集会所、午前10時開始です。

写真は前日に垂れ幕を書いている立命館大学と京都外国語大学の学生ボランティアたち。

この13人の学生たちは、車と時間の制約で大川小学校の見学を諦めていましたが、当会の永瀬さんが山形からきた遠藤さんを誘って、11日の早朝にピストン輸送で学生たちを大川小まで連れていき、追悼集会が始まるまでに全員の見学を終わらせました。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/26 (Mon) 19:07:59
*.home.ne.jp

細沼智子さんから献花がありました。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/26 (Mon) 19:48:11
*.home.ne.jp

群馬県太田市からいつも参加してくださる「美味しいコーヒー飲ませ隊」の須永さんご夫妻です。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/26 (Mon) 22:36:25
*.home.ne.jp

生出自治会長の挨拶はこれから仮設住宅を出て復興住宅に入る人たちへの思いがあふれていました。

「復興住宅では喜びの生活が待っていると思われていますが、かえって病気になる人が多い、孤立とか、孤独死とかいうことばも往々にして聞こえてきます。復興住宅の中での生活は簡単ではないようです......」

対して、藤田代表の挨拶は今日の集会に来てくれたボランティアのみなさんに向けたものでした。

「ざっくばらんに言いますが、今回は僕たちが被害にあったけれど、明日はみなさんの番だと言いたいわけです。この追悼集会は僕たち被災者のためにやっているのじゃない、明日にも被害にあうかも知れないみなさんのためにもやっているのだと言うことを知る学習の場として開催しようとしたわけです。

ボランティアさんの中には美しいこと、美談、しか聞きたくないということを言ってくる人もいます。でも、そういうことが好きならディズニーランドに行けと僕は言い返すんです。

自治会長の生出さんは7年前から会長だったわけじゃない。感情的な対立があって次々と会長さんが辞めていくわけです。そんな中で生出さんが2年前から会長を引き受けてくれているんですが、言ってみれば火中の栗を拾った人なんです。

自治会の運営が気に食わないと言って出刃包丁を振り回した人もいるんです。自治会の役員になって出刃包丁を振り回されてみなさいよ。みなさん、どう思います。仮設団地の現状ってそういうものなんですよ。それがありのままの姿なんですよ。こういうことも被災地のもう一つの姿なんだし、そういうことを報道してもいいはずなんです。こういうことがメディアに乗らないなら、ここに来た人が、ああそういう事があるんだと見て、聴いて、胸にとどめていって欲しいわけです。

そういう美談じゃない話もたくさんある中で今日を迎えたんです。みんなだってそうでしょ、楽しい人生ばっかりじゃないわけで。先程、生出会長がいろんなことがあって、うつ病になりそうで、どこかに逃げ出したいと言ってましたけど、僕たちには逃げるところなんかどこにもないわけで。だからここにいるんですよ。そういうなかで出刃包丁なんか振り回されたらみなさん、どう思うかっていうことですよ。

こういう過酷な状況の中で7年間耐え抜いて、今日ここにいるわけです。ぜひ、今日はそういう現実を知って帰ってほしいなと思います被災地に美談なんか必要ない。みなさん、そういうことを肝に銘じて、明日は自分の家族を守らなきゃ行けない番だと自分にきつく言い聞かせて帰っていって欲しいなと思っています。

そして7年前の今日、何があったかということについてディレクターのジェフリーさんにドキュメンタリーを用意してもらっています」。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/27 (Tue) 11:16:25
*.home.ne.jp

ジェフリーたちが監督・制作した短編映画「Then and now(あの時、そして今)」が上映されました。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/27 (Tue) 11:29:41
*.home.ne.jp

映画に出てくる証言者たちは、口々にあのとき何が起きて、そして今どうなっているかについて語っていきます。その画面を被災者とボランティアが食い入るように見つめています。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/27 (Tue) 14:22:53
*.home.ne.jp

映画のあと、藤田代表の話がありました。

「今、ドキュメンタリーを見ました。ああいうガレキの中から今日まで来たんですね。目に見えるガレキはなくなったんだけれども、復興団地に引っ越していった人たちに会うと、私は幸せだという人に一人もあったことがない。みなさん、孤独を告白するんです。

人は貧乏には耐えられるんですが、孤独には耐えられません。だから、みんなでお茶を飲んでおしゃべりするって大事なことなんです。今日で大きなイベントは終わりますが、これからはボランティアのみなさん、勝手にここを訪ねてきておばちゃんたちとお茶を飲んだりお煎餅を食べたりして下さい。」

次に、「ボランティア・サポート村山」および「みどりの会」の代表、古澤さんのお話です。

「みどりの会というのは村山市ばかりではなく、東京から、仙台から、日本中から、世界中からボランティアが集まって活動します。

今日は生出さんにもお願いして村山の子どもたちを育てるという意味で、地元の中学校に来ませんかと言ったら、40人くらいの子どもたちが、私やりたいと言って来てくれました。

こういう活動は7年前からやっているんですが、時間が経ったら人数が減るのかな、と思っていましたが減らないんですよ。毎回4、50人が集まるので、大人の方もやり続けなければ、と活動を続けている感じです。

テレビのまえで震災特番を見て済ませることも出来たはずなのに、実際に石巻がどんな所なのか来てみたいと言って来てくれた子たちです。必ず、この子達はあとになって役に立つ人間になります。

大人になって、なにかあったとき、彼らは必ず役に立ちますから。この子たちを育てるために、ちょっと掃除してくれとか何でも言って下さい。...これから、この子たちは掃除にいきますけども、その前に楯岡中学校校歌を歌ってから行きたいと思います」。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/27 (Tue) 14:40:02
*.home.ne.jp

校歌を歌う楯岡中学校の生徒たちです。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/27 (Tue) 17:55:33
*.home.ne.jp

東京から来た成蹊大学のボランティア本部UNIの学生ボランティアのメッセージです。

「1年の小野です。父が福島の原発の近くの出身です。自分が震災現場を見て回って思ったのは、報道との差があることに違和感を感じたことです。被災地としての石巻と原発は別のものなのに一つにまとめられて話されてしまったりとか、一人一人に、一つ一つのコミュニティに差があるのにひとつにまとめて話されてしまうことに非常に違和感を憶えています。

仮設住宅の方々でつくったコミュニティが復興住宅に移ることで崩壊してしまう、一回作ったものが壊されてまた作り直さなければならないというのは非常に大変なことだと思います。

自分たちボランティアが復興住宅に移った人たちを一人ひとりつないでいければなと思います。自分は将来スポーツとマスコミの力で町おこしをすることに携わっていきたいので将来また石巻に来て活動できたらいいなと思います」。

「2年の松沢です。先輩に誘われて1年半前に夏祭りに来たのですが、想像以上でした。石巻から家に戻って考えるものがたくさんありました。みなさんにもっと話を聴きたいと思ってこの活動をしています。こっちにこさせてもらって元気をもらって、考えさせられるというのは大事なことだと思うし、そういう場があるということを後輩たちにもわかってもらいたい」。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/27 (Tue) 19:28:13
*.home.ne.jp

成蹊大学生3人目
「2年の小堀です。私は1年前の3月11に、この大森第四団地に初めてこさせて頂いて、それ以降夏祭りやクリスマス会に参加させていただきました。

それ以来、東京では関わることのない幅広い年代の方とお話したり、交流できて温かい時間を過ごすことができたので、私もここに来るのが楽しみになっていました。

今日は大森第四団地で行う最後の追悼式ということで、これまで先輩たちが行かせていただいていた所に20人という大人数で参加できたことを嬉しく思っています。

ここでは美味しい料理も作っていただいて、私が特に印象に残っているのが牡蠣汁で、私は牡蠣が苦手だったんですが、ここで牡蠣汁を頂いて、美味しいなと思って牡蠣が好きになりました。大森第四団地では人と人とのつながりが大事だなと、毎回強く感じました。

大森第四団地が閉鎖されてしまっても、人と人のつながりは継続させて欲しいなと思っています。私達自身ももっとお話したり、一緒に料理してみたいなといろんな思いを持っている人が多いので、これからも交流させてもらいたいなと思います。

昨日も福島の浪江を見てきたんですが、自分たちが見てきたものを東京に帰って家族とか周りの人に発信していくのが役目というか、すべきことなのかなと感じたので、これからもこの活動を広げていきたいなと思っています。今日はありがとうございました」。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/28 (Wed) 13:36:14
*.home.ne.jp

大学紹介のあいだに藤田代表の話が入りました。

「やっぱり牡蠣汁なんですよ、最後は。僕たちは、牡蠣汁って全国で食べているもんだと思っていたわけですよ。それでお母さんたちには負担かけちゃったんだけど12月に牡蠣汁って言ったのはこういうことがあったからなんですよ。...

僕、みんなで団結して石巻で何回もサッカー教室開いたんだよね。そのとき来てくれたのが柴崎岳。で、僕は言ったの、こどもたちに。この選手たちは今に世界に飛び出していって、世界の中心選手になるって。サインもらうならいまのうちだって、言ったんですよ。

子どもたちは、柴崎岳って誰みたいなこと言ってたけど、今、リーガ・エスパニョーラの10番背負った中心選手になった。ほら、俺の言った通りになったろと言うと、今は、子どもたちが何でも僕の言うこときくわけ、あのときは俺をバカにしてたけど、ホラ見ろ。

で、柴崎選手の後は君だって言うと、子どもたちはもう笑わない、柴崎選手と会ってるから、柴崎選手と一緒にサッカーしたから、そういう具体的なお手本が日本じゃなくて、スペインの10番背負ってるとなると、ひょっとしたら自分も...っていうふうに夢って広がっていくじゃないですか。

だから、さっき話していたようにスポーツとメディアを連動させながら地域を興していきたいっていうのは素晴らしいし、僕たちがすでに着手しているけど、それはもう夢ではなくて、強い意志をもってやれば必ず実現するって思ってます」

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/28 (Wed) 15:38:49
*.home.ne.jp

次は、東北大学と立命館大学と京都外国語大学、3つの大学の学生ボランティアたちです。

まず、東北大学からスピーチと校歌を

「東北大学からは4団体来ていて、僕はインクストーンズの近藤といいます。(編註:小さな声で口ごもってよく聞き取れませんでした。名前、間違っていたらごめんなさい。こういう場面では大きな声ではっきりと発声してください。これでは社会に出てから、またインターナショナルの場面では通用しません)

東北大学に入って、仙台に来て、仙台に来たからボランティアしなければと思って初めてインクストーンズという団体のボランティアに参加させてもらって、その時に初めて来たのが、この仮設住宅でした。

そこで焼きそばマイスターの資格を取得して、...1回くらいでいいかなと思ったんですが、住民さんとまた会いたいなって思ったり、また来てねって言われたりして今も来続けています。

最初はインクストーンズだけがここに入っていたんですけど、だんだん[たなぼた]という団体とか[HARU]という震災当時から動いている団体とか[As One]というアジアで貧しい地域に家を作る活動をしている団体も入って、東北大学全体でここに入っているという状態です。

ここ(大森第四)は解消されてしまうんですが、何かのつながりでまた他のところでお会いできたらと思います。そのときはよろしくお願いします」

次に校歌が歌われました。なんでも、東北大学には校歌が5つくらいあるらしいですよ。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/28 (Wed) 15:50:43
*.home.ne.jp

東北大生が校歌を歌っています。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/28 (Wed) 19:01:06
*.home.ne.jp

次は立命館大学学生リーダーの挨拶ですが、この人も自分の名前をはっきりと発声しませんでした。

「おはようございます。京都市の立命館大学から参りました。私は今回リーダーをしている○○○○りさと申します。今回は立命館大学からは11名の参加です。

今回訪問させていただくのが、昨年の9月にも訪問させて頂いたので2回めになるメンバーもいたり、今回初めてとなるメンバーもいて、今回東北に来させていただいて遠く離れた京都から何が出来るか、私たちに出来ることは何なのか、しっかりと考えて行きたいと思います。...

これチームTシャツで背番号もついてます。」

藤田「やっぱり10番ついてるから司令塔Tシャツなんだ。ハビっていうのは ?」

りさ「Habitat for humanityという」

東北大生「As Oneさんの仲間だ」

りさ「そうです。昨年の9月に訪問させていただいたのもAs Oneさんがきっかけで京都外国語大学と一緒に訪問させていただいて今回もそのつながりで」

藤田「チームとして何を中心に考えているんですか。団体の目標としては」

りさ「今回の合同派遣の目標としては震災のことを知って伝えていくということがあります」

りささんは写真左の青文字で書いたハビTシャツを着た人です。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/29 (Thu) 15:34:05
*.home.ne.jp

次は京都外国語大学の学生ボランティアのスピーチです。彼は堂々たる体躯と素晴らしいバリトンで話す学生です。外大生よりも音大生にしたいくらい素敵な声です。

「京都外国語大学の一回生でリーダーを務めさせて頂いている市坂りゅうやと申します。昨日、生出さんと話していて、生出さんのお孫さんが震災があった年に生まれたということで、やっぱり家って大事だなと思いました。

さっき一緒に遊んでいたんですけど、彼らにとっては仮設住宅が自分の故郷であって、家であるっていうのが、さっきキャッチボールしててよくわかりました。自分も故郷を大事にするという気持ちを大切にしたいなと思います」。

引き続いて藤田の話です。
「石巻の人に聴いて欲しいんですけど、2011年、震災直後、石巻の湊小学校、津波が来てめちゃめちゃに壊れましたけど、実はあそこにね、長野県のお医者さんの団体がお風呂を作ったんです。大きな循環式のお風呂を作ってくれたんですけれども、すぐ、壊れたんですよ。

あのとき、壊れたんだけど、作った人たちもすぐには駆けつけてこれない。せっかくみんな楽しみに入りに来てたんですけど、壊れてしまって、それでね、どうしようかって言ってた時に、たまたま、そこに東北大学の工学部の学生たちがいて最初は遠慮してたんですが[すみません、僕たち工学部なので、ちょっと拝見していいですか]と言ってきた。[おう、頼む、頼む]と言うと、学生たちが給湯器をバラバラにして[これはこういうメカニズムだから、ここに水が通って、お湯になってこう通るはずだ]と言って、あっという間に直してしまったんですよ。

それでお風呂が再開できた。あのときのお風呂だからね、今のお風呂じゃなくて。その時に、僕は現場で見ていたんですけど、専門を生かして社会に貢献するっていうのはまさにこういうことだなと思いました。

ちょっと、誤解を招きかねない表現なんですけど、この7年間、全国からたくさん学生が来てくれた、それで、どこの大学から来たのって聞くと、必ずと言っていいほど、誰でもが知っている大学の学生がほとんどでした。逆に言うと僕が名前を知らない大学の学生に会ったことはほとんどないんですよ。...

みなさん、これから社会に出ていくんですけど、自信をもって社会に出ていって欲しいと思います。別に工学部だけが社会に貢献するっていうことじゃなくて、外国語を話せるっていうことだとか、歴史を勉強していることだとか、それぞれの自分の得意分野を生かして社会に出ていくんだけど、みなさん一生懸命努力して難しい試験を突破して大学に入った子どもたちは基礎能力が高いんだと思います。

そういう子たちが社会に出て高い能力で私利私欲に走ったりすると、この社会は壊れていきますが、ここに7年間ずっと通って下さったみなさんは基礎学力が高い若者たちですけれど、その学力を自分の私利私欲のために使おうという発想の人達は一人もいないんですよ。

自分の能力と、学んだこと、あと仮設団地の妙に温かい雰囲気と美味しい牡蠣汁っていう、そういうものを胸に秘めて、みんなの幸せのために何が出来るかということを考えながら卒業していった先輩たちがいる。みなさんも、その遺伝子を受け継いで今日ここに来てくださったと思っているので。

今日の時点で何が出来るかとか、そんなことは関係ないんですよ。ここで感じたこと、しゃべったこと、あとおばちゃんたちが話してくれたこと、そういうことを胸に秘めて学校に戻って勉強して、友達との雑談の中で、[おれ、昨日、石巻の仮設団地に行ってきたんだよな]とか、そういう雑談を繰り返す中で、やがて鮮明な記憶になって残っていくと思いますので。

そして社会に出た時に何ができるか、ということです。今回は私たちが被災しましたけれど、この次は京都なのか、大阪なのか、山口県なのかわからないよ。あるいは結婚して嫁いでいった先が被災する。

僕の知り合いは、高校生の時、阪神大震災で被災して大変な目に遭って、結婚して熊本に嫁いだんですよ。そしたら、今度は熊本であんな巨大な地震に被災。そんなこともあるんです。災害が追いかけて来るっていうこともあるんです。

そういうこともあるので、次はみなさんの番だという時に、基礎学力が高くて、大学で高度な勉強をして、こういう社会経験も積んだ上で社会に出ていくので、いざ、そういうときが来たときにはリーダーとして辣腕を振るって欲しいなと思っています。

そう思って僕たちは生出さんたちと相談しながら7年間一緒に活動してきたんです。そのことをどこかに記憶しておいて欲しいとおもいます」。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/29 (Thu) 21:04:49
*.home.ne.jp

九州ラーメン党の濱田さんのスピーチです。

「みなさん、こんにちは、実は2年前、5年目の慰霊祭をした時に[また来年来ますよ]と言って生出さんとかたい握手をして別れました。そして、帰って一ヶ月後に熊本で地震が起きました。4月の14日と16日に地震があって、今度は私たちが被災者になりました。当時は益城町(ましきまち)って読める人は誰もいなかったんですが、地震のおかげで「ましきまち」って読めるようになった日本人がいっぱいいました。

その中で翌日から、私は車中泊をしていたんですが、被災地でラーメンを食べていただくというのが、仕事だと思っているんで、翌日から炊き出しを始めました。

被災地で、被災者が炊き出しをするというのは珍しいらしいですね。車中泊ですから自分の家がどうなっているかわからないんですよ。

そしたらね、藤田さんが飛んできてくれたんです。そのときにですね。生出さんが仮設住宅の戸を叩いて義援金を集めて、みんな苦しい生活しているんですよ、大変な暮らしをしている中で義援金を集めて届けてくれた。これ、何でしょうかね。一言で言えば友情でしょうね。

こういうつながりの中で、私たちは7年間来ていますけど、お返しをしてもらおうなんて気持ちはまったくないんですよ。たかがラーメンですよ。温かいラーメンを食べてもらってお話をさせていただく。それだけの思いで来ているんですが。...

藤田さん、その時体弱っていたんですよ。そういう中、すっとまり、すっとまり、そういう車を乗りついで私の所に来てくれた。...

現場に行かなければわからないことってあるじゃないですか。彼は一ヶ月間泊まって、私のところは泊まれないので私が借りてる他の場所に一ヶ月間寝泊まりして、...助けられました。

ですから今回は、ありがとうございました、おせわになりましたということをみなさん方にお伝えに来たんです。」

この後、濱田さんのラーメン店を建築した建築会社の社長さんが「宮城長持唄」を歌ってくれました。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 13:08:17
*.home.ne.jp

次は、「繭の会」の穂積さんによる大型の絵本読み聞かせです。「おおはくちょうのそら」という絵本を読んでくれました。

この場面は病気の子どもを置いて、白鳥の家族が北の国に帰っていく場面です。

白鳥の家族は病気で飛ぶことが出来ない子のために、最後の最後まで北に帰る日を延ばしていましたが、ついに、この子を置いて出発することにしたのです。

さて、この後、この家族はどうしたのでしょうか。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 14:18:53
*.home.ne.jp

次は「繭の会」の阿部さんによる歌声喫茶です。選曲は阿部さんと市民の会の鈴木で行いました。阿部さんが歌詞カードを用意してくれました。

「あかとんぼ」の米村さんが常々言っていることですが、日本にはお年寄りも、子どもも一緒に歌えるいい歌がたくさんあります。しかし、その歌が次の世代に引き継がれていないのです。

米村さんが石巻で歌声喫茶を開催したとき、仮設住宅や施設にいるお年寄りには歌えても、若いボランティアたちは歌えない歌が多い、という場面に頻繁に遭遇しました。そのことに米村さんは危機感を抱いています。市民の会も同様に考えています。

そこで、今回は市民の会として大学生たちに向かって偉そうにスピーチをしました。

「みなさん、大学の大事な役割の一つに文化の継承ということがあります。みなさんは大学生なので、世界の文化のほかに日本の文化を次の世代に伝えるという使命があります。歌も文化の一つですから、いい歌は次の時代に伝え残さなければなりません。ですから、これから歌うような歌をぜひ憶えて次の世代に伝えて下さい」。

「みかんの花咲く丘」「あかとんぼ」「荒城の月」「喜びも悲しみも幾歳月」「ふるさと」「高校3年生」「四季の歌」などを歌いました。



Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 14:23:03
*.home.ne.jp

いつの間にか、住民の方が前に出て歌っていました。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 14:27:13
*.home.ne.jp

ラーメンが配られ始めました。おいしそうですね。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 14:31:17
*.home.ne.jp

集会所の外に出ると、そこでは楯岡中学校の生徒と大学生がラーメンを作っていました。

このラーメンは材料を「九州ラーメン党」が提供し、調理を山形県村山市の「ボランティア・サポート村山」から派遣された村山市立楯岡中学校の生徒が主に担当しました。

「九州ラーメン党」と「ボランティア・サポート村山」によるコラボレーションです。

このほかに、「ボランティアサポート村山」は玉こんにゃくを作りました。

そして、この中学生たちはこの仮設団地のお掃除もしたのです。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 14:38:06
*.home.ne.jp

再び集会所の中に入ると、ジェフリー&シブヤのデュオコンサートが始まっていました。

カントリー・ロード、テイク・ミー・ホームと懐かしくも悲しい歌です。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 15:43:25
*.home.ne.jp

そこへ突然「こんちわー」と二人のお笑い芸人が入ってきました。

お笑いの元祖、吉本興業の宮城県在住コメディアン、「爆笑コメディアンズ」の半沢さんと秀作さんのお二人です。

「僕たち、爆笑コメディアンズというんですが、僕たちのこと知ってるという人、知らないという人は手を上げて、...みなさん、今日ここにいる人はとってもラッキーなんですよ。僕たち、テレビじゃめったに見られませんからね」。

いきなり自虐ネタで突っ込んできた二人は、この後もたくさん笑いを取っていました。さすがにプロの芸人さんだけあって、滑舌がよく、テンポも快調で...。
あとで中学生が、おもしろかったねー、と話していました。爆笑コメディアンズのお二人は自治連合会のコーディネートで来られました。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 17:09:29
*.home.ne.jp

また、集会所の外にでると、女子学生が白玉を作っていました。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 17:16:55
*.home.ne.jp

すぐとなりでは男子学生が小豆を茹でています。白玉ぜんざいを作っているんですね。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 17:35:10
*.home.ne.jp

集会所の中ではジェフリーの映画が上映されています。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 17:46:10
*.home.ne.jp

集会所の外では、藤田代表が熊本テレビのインタビューを受けています。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 17:57:59
*.home.ne.jp

会場ではジェフリーの映画「笑う東北」が上映されています。映画の中で、みんな、ワッハッハーと笑っています。

この映画は世界中で8回くらい放送されたそうです。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/03/30 (Fri) 23:12:17
*.home.ne.jp

藤田代表はこの間も集会所の外で中学生をまわりに集めて話をしていましたが、録音機は1台のみで集会所内においてあるので、この話は残念ながら収録できませんでした。以下は集会所内での話です。

藤田「ジェフリーは2011年のガレキの山を取材して、映画に撮ってNHKなんかと協力して世界に向けて発信しているんです。だから、我々が思っている以上に世界の人達が、どんな被害があったのかを知ってくれているんです。一生懸命、石巻の人に代わって発信してくれたのがジェフリーなんです。

今も東北大学の学生がインターネットを使って、今、長崎大学のみなさんとお話をしています。今、同時中継です。長崎の人たちは今日、何をやっているかと言うと、3.11を忘れたくないというので、長崎で石巻のことを思って、役所、消防署、警察などと連携しながら、もし今度、長崎で災害が起きたらどうしようかということをテーマにしながら、石巻のみなさん、元気ですかってインターネットとパソコン越しにお話しています。

私たちの予想を超えて、みんなが石巻のことを思って、福島のことを思って、頑張って活動してくれているんだなあと思います。改めて勉強させてもらいました。若い人たちから」。

ジェフリー「昨日、今日、横浜の防災センターで今日の映画の他にも7本くらいを、そこで上映している」。

藤田「こんな感じで、石巻の人たちが思っている以上に、みんなが情報を外に向けて発信してくれているんですね。もし、長崎で巨大な災害が起きたらどうするかということを考えている。...

3.11は残念な不幸な出来事でしたけど、だけど、なにかここから学ぶものはないかと世界中の人たちが必死になって、これ以上自分の家族が死ぬことがないようにという願いを込めて頑張っている。若い人たちがね。ほんとにありがたいことだなあと思って今日ずっと見ていました。若い人たちを。...

楯岡中学校のみなさん、一生懸命、草引っこ抜いてくれて、空き缶拾ってくれてずいぶんきれいになったよ。たくさんの人たちがもう引っ越しちゃって、夜帰ってくると真っ暗な団地になっているけど、まだお母さんたち、ここでこうして暮らしているから、みんなにゴミを拾ってもらって、雑草をああやって捨ててもらって、やっぱりきれいになったなあと僕も思うけど、お母さんたちだって思うよね。隣の県から来てくれたみんながやってくれた。ありがたいことだなあと思っています」。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/01 (Sun) 10:47:19
*.home.ne.jp

次に武山(たけやま)さんの挨拶です。最初に藤田の説明が入り、次に武山さんの話が入り、後半は藤田が経験した被災と被災後のこころの葛藤を語ります。

藤田「団地に住んでいる人たちの代表として、一言武山さんにおねがいします。この武山さんは、あの日、後ろから高さ10メートル位上の真っ黒い津波に追いかけられて、娘さんと二人で走って逃げた人なんですよ。それ、逃げろ、逃げろという時に」

武山「ほんとはお寺に、お寺の集会所に避難するようになっていたんです。それを、どういうわけだか私、山に向かって歩いたんだね。そのおかげで、一波はかぶって、自分では気を失って死んでるんだけど、最終的には娘に助けられて、こうやって生きているんです。あのときはたいへんだったね、うちの部落(長面:ながつら)は小さくて150軒しかないのね、そのうち132人亡くなったんです。私一波来ただけで、もう終わりってなったんだからね。死んだの、自分では。

だけど、娘が夢中になって、お母さん助けねばって、汚い水の中、それで娘は両目が傷ついて、両目手術したんです。私は浮いてとんでもない方にいたんだけど、私の家は牡蠣やってるもんだから、お父さんのジャンパー着ていたの、そのジャンパーが浮き輪になったんだよ。もし、そのジャンパーがなかったら私はもう終わり、沈んで。だから、あのジャンパーがほんとにありがたかったよ。それでやっと助かったの。132人亡くなったんだからね。だから、人のいのちって、亡くなる人はその瞬間に、ほんとにいっときのあいだに亡くなる人は亡くなる。

挨拶ってのは出来ないけど、みなさん東京からわざわざ来てくれて、ほんとにありがたいとおもいます。7年間来てくれてありがとうございます」。

藤田「立派な挨拶でしたよね。武山さんの話は、僕も聞いてびっくりした。娘さんと一緒に走って逃げて、後ろを見ると10メートルか20メートルくらいの真っ黒い津波が追いかけてきて、無我夢中で逃げたんだけど、津波に追いつかれて、武山さんは津波に押し倒されて気絶してプカプカ浮いていたんですって。武山さんは意識がないわけでしょう。だけど、一緒に逃げていた娘さんがお母さんを見失ったんだけど、自分の目を傷つけてでも毒の水みたいなところに飛び込んでいって武山さんを助けたんだけど、武山さんもお父さんのジャンパー着ていたので助かった。

助かった人の話というのは、みんなどこかで九死に一生スペシャル、奇跡が偶然重なった人だけ助かっているんですよ。ぼく、たくさんの人の話を聞いてきましたけど、普通は映画の脚本でしかあり得ないだろうなっていう偶然が重なった人だけが助かっている。武山さんだって、いつもお父さんのジャンパー着ているわけじゃないでしょ。」

武山「その日はね牡蠣のタネ、タネをつける日だったからね、その日に限って着ていたの」。

藤田「ほらね、もしそのときお父さんのジャケット着ていなかったら浮き輪の役目を果たさなかったので、もしかしたら武山さんは、そのままブクブク沈んでいって、娘さんが見つけることが出来ないまんま、今、みんなの前には武山さんは立っていなかっただろうな、という経験、そういう話はたくさん出てきます、生き残った人の話を聞くと。普通にヒョコヒョコ歩いているけど、話聞いてびっくり仰天っていうエピソードたくさん持っているんですよ。その後、娘さんに見つけてもらって、「お母さん」って言って引き上げられて走って逃げようっていう時に途中にお寺があって、地域の人たちは結構そこに逃げ込んだんですって。だけど、武山さんは何か思うところがあって、そのお寺には逃げなかったんです。で、結論から言うとそのお寺に逃げた人たちはほぼ全員...」。

武山「全員亡くなったのよ。私がなんで山向いて足、歩いていたか全然わからない。」

藤田「本人が未だにわからないんですって、何であのとき、みんなが逃げて、みんなが集まってるお寺に普通みんな逃げようと思うんだけど、なんでか武山さんは、その時、お寺じゃなくて、もっと山に逃げようって思って、結果的に助かった。お寺に逃げた人は全滅だそうですよ。」

会場から知人の声「お墓の前にいたとか」

武山「うちのお墓の前にいたの。だから、娘はね、おばあさん大好きだったから、おばあさんに助けられたーって、言ってるんです」。

藤田「だそうですよ」。

武山「こっち行くのが普通なんですよ。」

藤田「でも、なんでか、おばあさんが眠ってるお墓のところに、呼ばれるようにでしょ。そのまま山を目指して、偶然。ところがね、あとになってわかったのは、そのとき骨折していた、実はね、武山さん、足を骨折していたんですって。だけどね、あの状況だから痛みがないわけ、興奮しているから。それでね、武山さん、その後山に、えーと何人くらいいたんですか、山に。2日と半日くらいは焚き火して、山の上にいた。何人くらいいました?」

武山「5、60人いたと思いますよ」

藤田「5、60人いたんだけど武山さんは足を骨折していたわけ、だけど、本人はわからない」

武山「わからないの」

藤田「で、他人の赤ちゃんの子守してたんですって、2日半、骨折しているのにだよ。で、その後、自衛隊のヘリコプターが助けに来て、うえからロープが降りてきて釣り上げて安全なところに救い出して、病院に連れてって、医者が念のために検査するって言ったら「武山さん、あんた、足折れてるよ」って言われて、それからでしょ、なんとなく痛えなっていうの。」

武山「そうなの、二ヶ所折れていたの。それで、背骨も折れて、こういうの、コルセット作ってもらったの。」

藤田「医者が、骨折してるっていうまでは知らなかったの、それで、子守してたんですって、山の上で。...それでね、武山さんだけが、こうじゃなくて、助かった人はみんな、こうです。

...だからね、みなさん、自分が住んでるところの歴史、土地の歴史っていうのがある、300年前、ここで大地震があって人が100人死んだとか、土地には全部歴史があるの、それでね、これからは自分が住んでいる土地の災害の歴史をぜひ勉強してください。例えば海沿いだったらば津波が来るんだけど、300年前、ここに逃げた人は助かったという言い伝えがあるんですよ。そういうのをたくさん、みなさん学んでほしいと思います。それは自分を守るためだからね。

僕は母親と叔母とワンコと一緒に暮らしていました。それで地震が来たとき6分近く揺れていたっていうんだけど、僕はわからなかった。地震が収まって、津波が来る、逃げなきゃダメだと僕が言ったときに母親が、玄関が壊れていて家の外には脱出できないって母親が言ったわけ。

いま、7年経って僕が思うのは、あれは僕の大きなミスだったと思います。母親は女だったからドア壊せなかったかもしれないけど、僕はまだ7年前の男性だから、あんなもの体当たりしてドア壊して外に家族を逃がせば、たぶん脱出できたんじゃないかと、今は思うんですよ。だけど、あのときはね、母親が玄関壊れてて脱出できないって、それをね、すっかり信じ込んでしまったんですね。

で、今、7年経ってみて、いや、あれは母親が女性の考えで、壊れないって言っただけであって、男性がフルパワーで壊せば脱出できたんじゃないのかなっていうふうに今は思うんですよ。だから、自分の母親とか叔母を絶対に助けられなかったのかなと思うと、いや、違う男性だったら助けられていたかも知れないなって今は思うんですよ。

それはねー、何年経っても自分に問いかけるわけ、あのとき、実は自分の力を使って家族を助けることができたんじゃないかなって思うんですよ。自分にいつも問いかけるんだけれども、家族が死んだという事実だけが残っている。いくらじぶんに問いかけたって、ほんとに、あのとき家族を救うことが出来たのか、なんて誰にもわからない。だからこそ、自分に問いかける時に、もうちょっと自分がしっかりしていれば、家族を助けることができたんじゃないかなーという、とっても大きな後悔が残ってしまうんですね、自分の中に。いや、残念でなりません。

男の子として生まれてきて母親を助け出すことが出来なかったのかという情けないなーって思うし、なんとか出来なかったのかなーとか、もう後悔ばかりの連続ですよ。でも、もうどんなに泣いても帰ってこないなあってこともわかっているんですよ。わかっているんだけども、じゃあ、自分を許せるかって言うと許せないんですね。

だからね、ここに参加してくれたみんなに言いたいのは、できれば家族を失うっていうのは自分で最後にしたいなあって思っているんです。

家族が津波にのまれて、僕はその後探したんですよ、津波の中を泳いで。でも、どこを探しても見つからない。濁流だからね。激しい流れの中で自分も流されそうになる。必死に電信柱とか、ワイヤとか掴まりながら泳いで探すんですけど、どこを探してもいないわけ、何時間泳いでいたかわからない、体の感覚がない。

それで最後に、よし、これだけ探してもいないんだから、最後にもう一回だけ大きな声で「おふくろー、返事しろー」って呼びかけて返事がなかったら、俺の家族は全滅したんだなっていうふうに諦めようって自分に言い聞かせたわけ。それでもう一回だけ大きな声で「おふくろー、返事しろー」って言ったんだけど、なんにも聞こえてこない。生きてる人たちも多分いたと思うんだけど、その人達の声も聞こえない。

で、僕はね。俺の人生は終わったし、家族もみんな死んだんだなって思って、じゃあ、自分の家に戻ろうと思ったんですよ。ぱっと気づいたらね、自分の首から下の感覚がないんですよ。自分の首を切って海の上にポコンと載っけたような感じ。そこから先は、どうやって自分の家に戻ったのか記憶がないんです。僕の家だって階段がないんですから、ガレキが突っ込んできてめちゃめちゃで、だから、どうやって二階によじ登っていったのかという記憶もないんです。

思ったのは、俺の人生終わりだなっていうのと家族はみんな死んだんだなっていうこと、明日からどうして生きていけばいいんだろうと思ったんだけど、答えなんかわかるわけないでしょ。で、ボーッとしていたんですよ。みんなが言うにはその後も震度5とか6とか言う地震の繰り返し、地震がきたっていうんですよ、みんなは。だけど、僕は記憶ない。まったく記憶がないんですよ。なんで記憶がないかっていうと、家族が死んだからですよ。

家族が生きていたらもっと神経が鋭くなって、水どこにあるか、食べ物見つけてこなきゃってなるんだと思うんですよ。だけど、家族が死んだ瞬間にね、家族が死んだ以上はもう食べ物探す必要ない、水も必要ない、だから、僕、実際に2日ぐらい水飲んでないし、ご飯も食べてない。食べたいとも思わない。もう気持ちが抜け殻になってね、...食べ物なんかなくても何でもなかった、ってみんな言うんですよ。これ、ほんとなんだね。みんな気が抜けたんだね、呆然としてね。

さらに驚いたのはおしっこ出ない、うんちも出てこない、何日も。みんなで言ってたの「そうだなー、一週間目くらいでうんち出たかなあ」って言ってた。だから、それくらい、ああいう滅多にない経験をすると人っていうのは普通じゃないんですね。普通じゃない中で、まだ家族が生き残ったという人もいるんだけど、家族がみんな死んでしまったという人もいて。

だから、僕はね、自分の経験を踏まえてみんなにお願いしたいなと思うのはね。ボーッとして生きてちゃダメなんです。まずはね、家族がいる人は話し合ってほしいと思います。何を話すというと、例えばね「お父さん、もし、大きな地震が来て携帯電話で話せなくなった時どうしようか」っていう話をすればいい。それで、「私は中学校にいる、中学校から絶対動かないようにするからね。お父さん、お母さんは迎えに来る必要がない」って言わなきゃダメ。逆に「お父さんは災害が来た時、ここにいるからな」って伝える。お母さんはあせって子どもを迎えに行かない。車に乗ってどっかに行かない。お母さんもすぐ安全なところに逃げる。

で、災害が来て、大概はね、一日過ぎて、次の日になればなんとかなるから、次の日になって、ここで待ち合わせしようと家族で決めたところに、安全を確認しながら、家族の待ち合わせ場所に向かえばいいんです。そこで、お父さん元気だった、お母さん元気だった、子どもたちも元気だったと、こんな幸せなことはないんだから。みんなが今すべきことはそれですよ。

ボーッと生きてちゃダメなんだよ。災害が来て生き延びることが出来たら、次の日から困っている人がいるんだから、中学生だったら出来ることがたくさんある。県外から物資が、水がたくさん運ばれてきたら、それを自分たちで小分けして、それを地域の人に配って歩いたりね。「水、ここにありますよ」とか「パンはここにありますよ」というふうなことをどんどん呼びかけてもらいたい。みんな出来る。

だから、今日来て楽しかったなあと言って、明日からまた普通の中学生に戻るとかいうんじゃなくて、今日をきっかけにして、内側に眠っているこころをどんどん研ぎ澄まして、自分の能力を限界まで磨き上げて欲しいなと思います。自分が出来ることってたくさんあるんだから。

武山さんは、僕と会ったときに、「一度死んだ人間だから」って言うんだ。だから、助かった次の日からは、これ神様からもらったいのちだと思っている。あの時、私は一度死んだんだ」って言う。「でも、もらったいのちだから、これからはできるだけ、みんなに恩返しをしていきたい」って。だから、それ以来、武山さんはじめ、この団地のお母さんたちはみんなこうやってなにかあると参加して一生懸命手伝ってくれるんですね。そこに今日みんなが来てくれたのでね、感謝の気持ちでいっぱいです。

団地のお母さんたちを代表して武山さんに体験談を含めてお話してもらったので、実はみんなニコニコ笑って元気にその辺歩いているけど「あの時どうだったの」って話を聞いたら武山さんのようなびっくりする話し、たくさんみなさん持っていますので、そういう事普段は言わないで元気に生きているんだと思っていてください。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 11:14:33
*.home.ne.jp

生出自治会長のお礼のことばです。以下。

「今日は7年目の追悼式に、多くの人たちに参加してもらって、自治会として、自治会長としてたいへんありがたく思っています。

先程、長崎大学の学生たちとインターネット中継でいろいろな話をしました。彼らも長崎からここに何度も来てくれました。「東北の復興はどうですか」「今、復興住宅でどんな問題が起きてますか」「復興住宅の進捗度はどうですか」。そんな声がパソコンの中から聞こえてきましたが、「ボランティアのみなさんに協力してもらって、なんとかやっていますよ」と返事をすると「また、そのうちに行きますから、会えることを楽しみにしています」と励ましのことばをいただきました。

そういうことばを頂きながら仮設住宅で7年の生活を終えられること、自治会長としての努めが終わることをとてもありがたく感じます。ボランティアの人たちが来てくれなかったら、私は何も出来なかったと思います。ここでこういうふうにして仮設住宅に住むみなさんが元気でいられるのも、ほんとにボランティアの人たちの力だと思います。すごくありがたく感じますね。

いつ、またみなさんが災害とかそういうものに遭うかわかりません。全国各地で、また世界でいろいろな洪水やら、天変地異の被害やら、想像も出来ないようなことがたくさん起きています。自分たちのことばかり考える人も中にはいますが、やはり、こういう場所に来て、いろいろな話を聞くことによって、自分の意識を広く持って行動していくことが大切でないのかな、と思います。

これからの生活はさまざまな面で大変なことが起きてくると思います。自分のことだけ考えて、幸せになるというのは難しいことです。さきほど、藤田さんが、自分たちにできること、また震災が起きた時に、物資の配給とかなんかの話もしましたが、自分の気持ち一つ外に向ければ意外としやすいことです。自分のことだけ考えている人はなかなかやりにくいことだと思います。

どうかこれからは意識を広げて多くの人の力にになって、活動してもらいたいと思います。ほんとに今日はありがとうございます。このようにみなさんに来てもらって追悼式を終えられることは感謝の念に絶えません。

さきほど熊本のラーメン党の濱田さんが帰っていかれました。2年ぶりに会ったんですけど、今度は同じ被災者として会ったんですよね、以前はボランティア活動として協力するという形だったけれども今度は対等の立場になって被災者として会うということが複雑な心境です、というようなことを話しておられました。

確かに、被災していないひとにとっては「大変だべな、つらいべな」っていう思いを持つけれども、相手の状況を知れば、自分の中にも、自分がいつそのような状況になるかわからないようなところもあるわけですよ。どうか中学生の皆様も、これからは周りの人たちの状況を見ながら、たとえ、そのような状況になっても乗り越えられるような力を身につけて活躍して欲しいと思います。今日は本当にありがとうございました」。

生出自治会長のお礼のことばは以上です。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 11:19:56
*.home.ne.jp

今度は市民の会関係のボランティアが呼ばれて、みんなの前に立ちました。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 13:51:39
*.home.ne.jp

なかなか紹介するチャンスがないので、藤田から紹介させて下さい。

「須永さんご夫妻です。2011年の早い時期から石巻に来てくださって、僕たちと一緒に喫茶店活動を、夏の暑いときはカキ氷もして下さった。災害が来るとお茶って飲めなくなるんですよねー。急須がなくなるし、湯呑もなくなるし、お茶っ葉も流されるし、コーヒーフィルターもなくなるし、豆もなくなるし、家もなくなって、ガスも水もなくなるから。

で、あちこちの小学校とか、体育館とか避難所で、缶コーヒーくらいしかないんだよね。それで、温かいコーヒー飲みたいなあ、と言ってる時に須永さんが手で淹れるコーヒーを持ってきて下さって、避難所とか小学校の体育館とかにプーンとコーヒーの香りが充満すると不思議なもので、そのコーヒーの香りで涙を流して泣いていた人たちがずいぶんいたんです。生きているっていう実感を思い出したって...。

それ以来、今日まで7年間、行動をともにしてくださった須永さんたちです。大きな拍手を」。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 14:21:09
*.home.ne.jp

僕たち、「石巻市復興を考える市民の会」のスタッフ、永瀬さんです。今は秋田県に住んでいます。永瀬さんはね、あの当時もう1年以上ずうっと、僕の管理していた地域の集会所で、寝袋で寝泊まりして一生懸命ガレキの処理をしたり、炊き出しをしたり、物資の配布をしたり、人の苦情、相談を処理をしたりしてくれました。

あと、夜になると、永瀬さんは料理が上手なので、市民の会のスタッフのためにご飯を作ってくれたんですよ。僕たちは、あのご飯を食べてなんとか活動できた。そういう意味では石巻にとっても恩人でしたけれども、我々、団体の内部にとっても恩人の一人なんですね。それから、そのあともずっと、僕たちが困っている時に、いきなり現れては助けてくれるんです。不思議な人です。

今は、秋田で仕事をされています。車に関してはピカイチの専門家ですので、市民の会の車はずいぶん永瀬さんのお世話になりました。みなさんも何かあったときは彼に相談して下さい。では永瀬さんに大きな拍手を...。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 14:58:18
*.home.ne.jp

隣にいるのは篠島さんと言います。彼の故郷は富山県です。2011年の早い段階から石巻、岩手県、福島も入りましたね。

もう3県にまたがって、農協が勤め先ですので、農協のバックボーンも最大限使いながら何度も何度も繰り返し被災地に乗り込んできて支援をずっと続けています。笹川誠心会を率いて被災地で素晴らしい獅子舞を披露して下さった。再建途次の保育園に、大きなプランター農園を2回も作ってくださった。そうやって、7年目の今もここに立っていて下さる人です。

僕たちと一生懸命活動してきた市民の会のスタッフの一人なんです。今日も来て下さって7年間ずっと僕たちと一緒にいてくれた。感謝の気持ちでいっぱいです。彼もずっと石巻のために貢献してきた一人なので、どうぞ大きな拍手を...。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 17:10:05
*.home.ne.jp

真ん中にいるのが鈴木さんです。2011年の3月にピースボートの第一陣で行こうとしたけど、テントがなくて行かれず、第二陣で行った。第九陣では1000人分の米を一人で研いでいた。そのご飯、僕たちは食べているんです。

その後も清瀬にいるより石巻にいるほうが長いって言うくらい、7年間ずっと中心メンバーの一人として活動してきました。途中で重い心臓病ということがわかって数時間に及ぶ手術をして、手術の後遺症があっても石巻に来ました。それで今日まで一緒に活動して下さってる鈴木さんです。大きな拍手を...。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 18:27:26
*.home.ne.jp

僕の隣りにいるこの二人は竹森さん、ご夫婦です。ご主人は大学で物理を教えている先生なんですね。隣にいる奥様はイギリスの出身なんです。山歩きが共通の趣味で、そこからご夫婦の時間が始まったというわけなんです。

ジニーさんは日本語が堪能で翻訳を通じて日本のものを英語に、英語を日本語にという文化的な活動をしながら、災害が発生した時、筑波大学の研究者、エリートの学者さんたちを中心にして2011年から何度も何度も石巻に来てガレキの処理やら何やらをしてくださった。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 18:46:20
*.home.ne.jp

ジニーさんと竹森さん、今回もこうやって来て下さってご縁が続いています。

ほんとは僕はね、石巻が一段落したら、食べ物とか支援物資とかいう段階から、やがて教育という段階に発展していくだろうなと思っていて、そのときは竹森さんたちを中心にしてメニューを組みたいと思っていたんですけど、なかなか僕が描いていた復興のスケジュール、イメージ通りに進まなくてね。なかなか竹森さんたちにお願いするチャンスはないんですけれど、でも、今日こうやって来て下さるという、竹森さんご夫妻に、熱い拍手を...。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 20:09:32
*.home.ne.jp

繭の会です。穂積さん、前に...、阿部さん、前に...。

穂積さんはもともと重労働をするというタイプではないんですけれど、あの当時そんなことは言ってられないので、穂積さんたちにも炊き出しやら荷物の搬送やら集会所のゴミの後始末だとか、いろんなめちゃくちゃなお願いをしてしまいました。

やがて、石巻からガレキの処理が終わって、文化的な段階に入ってきたという時に、もともとお芝居を中心に活動されてきた団体でもあるので、そういうことを最大限利用して、具体的には紙芝居を最近はずっとお願いしていました。そのほかには穂積さん機織りができるので、僕たちのさおり織りの先生をしていただきました。仙台の向こうから石巻に長い間ずっと通ってきて教えてくれました。感謝しています。

ほんとはそれ以外にもたくさんできる人たちなんですけれど、子どもがいれば子供用の紙芝居、大人がいれば大人用の紙芝居をずっとお願いしてきました。

阿部さんは市民の会と直接の出会いはないんですが、繭の会の穂積さんたちが阿部さんを連れてきてくださった。

実は、阿部さんの前に神戸の米村さんというアコーディオンの名人がいて、米村さんを中心に仮設団地で歌声喫茶を繰り返してきたんですが、今は米村さん、さすがに神戸から駆けつけることが出来ない。

でもね、アコーディオンを中心にみんなで歌を歌うことはものすごく健康にいいんですね。仮設で歌声喫茶をやって、おばあちゃんたちから何を言われたかというと、おばあちゃんたちふだんは夜眠れないんですって。

たいてい夕方からお茶を飲まないように我慢してるはずなのに、布団に入って夜12時頃になると1回おしっこしたくなるんですって、で、おしっこしに行ったら最後、もう目が輝いちゃって眠れないで朝までずうっと起きて、それが365日続いているので健康に良くない、睡眠不足だってみんな言うんですよ。

それが歌声喫茶で、みなさん大きな声で歌を歌った時に、次の日行ってみたら、おばあさんがみんなおんなじことを言う「いやー、昨日ね、夜中に1回もおしっこでなかった」って、「爆睡して次の日の朝7時ころ、ハッて目が覚めたんだよね。いやー、すごく気持ちよかった」って言うんだ。僕が言ったのは、熟睡してもいいから次の日必ず、7時頃に一回目を開けろよって言ったんです。

言ってること、わかる ?

あと、もう一つはね、津波が来てめちゃめちゃになった介護施設があるんですよ。そこ、今は工事して復活したんですけど、その施設にいるおじいちゃん、おばあちゃんたちはそんなに年取っていない。そんなに痴呆の症状も出ていない。

その人達と歌声喫茶やったときにね、みんなが言ってたのは、もう大声出して歌うでしょ、それで、次の日、どうでしたって聞きにいくと、「その日は言えなかったけど、大きな声出して下っ腹に力入れて歌ったら、おしっこ漏れた」、歌いながら米村さんがジョークを飛ばすと、予想外のジョークだから笑っちゃうでしょう。笑うとやっぱりおしっこが漏れるって。それで、みんなで話し合って、次の歌声喫茶のときは尿漏れパッドをたくさんつけて臨みましたって、僕に教えてくれたんです。

それぐらい体にいいんですね。だけど米村さん来れなくなって、いやあ、一緒に歌歌ってくれる人いるかなって実はちょっと探したんですね。で、探しきれなかった時に穂積さんたちが、阿部さんって人がいるんだけど、来てもいいかなと。渡りに船っていうのはこういう事言うんだとね。こっちから、お願いしますと言って今日来ていただいたんです。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 21:14:55
*.home.ne.jp

穂積さんのごあいさつです。

「今日は、私も紙芝居をする予定だったんですけど、やや子供向けの中味だったもんですから遠慮しました。  
最初は虹色クレヨンの芝田さんの手伝いで、そのうちに藤田さんと知り合って市民の会の手伝いをするようになって、いろんな方との出会いがあって、直接被災されたときの状況を聞く事はできないでずっと来てしまった事はあるんですけれども、出来る範囲で皆様のお役に立つことができたら嬉しいと思っています」。

穂積夫人のごあいさつです。

「私共、7年間、石巻に通ってきまして、ほんとにいろんな方と知り合いましたし、友達もたくさんできました。

今日、藤田さんの話し、最後の話し、これがほんとに胸に、こころに響きました。藤田さんからこういったお話を直接伺ったのは初めてですね。

私も白鳥の絵本読まさせていただきましたけれども、やはり、忘れないこと、私たちに出来ることは、あの日を忘れないこと、そして今日を精一杯生きること、本当にいろいろ学ばさせていただきました。ありがとうございました」。

阿部さんのごあいさつです。

「みなさんと一緒に歌えた楽しい時間、ありがとうございました。」

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 21:19:53
*.home.ne.jp

地震があった2時46分が近づいてきました。みんなでロウソクに火をつけて黙祷する準備に入りました。会場に集まった人たちにロウソクを渡し、次々に火をつけていきます。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 21:23:23
*.home.ne.jp

中学生のところにも火がまわり、もうすぐ黙祷です。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 21:31:30
*.home.ne.jp


1分間の黙祷です。万感の思いがこもっています。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/04 (Wed) 21:54:02
*.home.ne.jp

不条理のただ中に死んでいく人は、他人の重荷、不幸をすべて引き受け、肩代わりして死んでいく。

筆者は、幼少期から結核療養所のなかで育ってきたので、理不尽な死を子どもの頃からずっと見続けてきました。

まだ若い人がつぎつぎに結核で死んでいきました。彼らは、悪いこともしていないのに、なぜ死ななければならないのか、ずっと謎でした。

その謎は、ここ被災地でも引き継がれています。何の罪もない人たちが、何の理由もなく死んで行かねばなりませんでした。

それは、おそらく永遠の謎でしょう。でも、私は、私たちが今日も無事に生きているのは、彼らのおかげだと思っています。合理的な理由などありません。そう信じて、彼らに感謝して今を生きています。

そう思わなければ、私のこころは壊れてしまうでしょう。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/05 (Thu) 12:34:29
*.home.ne.jp

山形県村山市立楯岡中学校の生徒たちといっしょに写した集合写真です。

この生徒たちの中から、将来、日本を立て直すリーダーが現れることを市民の会は確信しています。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/05 (Thu) 16:29:33
*.home.ne.jp

これは団地のみなさんと、大学生のみなさん、市民の会のボランティアのみなさんたちといっしょに撮った集合写真です。ここにいる大学生のなかから近い将来、日本や世界のトップリーダーが現れることを市民の会は確信しています。

政治家でも、経済界のリーダーでもそうですが、真のリーダーとは自分を無にしてことに当たる人のことです。身近なある人を見ていてそう思います。自分や自分のお友達の利益ばかり考えている人は、そもそもリーダーになる資格がない人です。

この写真に写っているボランティア、大学生や中学生たちは無私、無償の奉仕活動が出来るという意味で立派に、リーダーになる資格がある人たちです。

今日の初心を忘れずに、強い意志を持って前途無限の学びの荒野を踏み越えていけば、やがてあなた方一人一人の前に(お手本となるべき)人の姿が見えなくなる日がやってきます。そのとき、あなたは、自分がリーダーとして世界のトップに立ったことを自覚するでしょう。長い時間はかかるかも知れませんが、必ずその日がやってきます。恐れず前に進みなさい。

私がかつて大学生だった頃に(私は中高年を過ぎても大学生をやっていました)英語の教授に弱音を吐いたことがありました。自分は英語が苦手で、ましてその英語を使って世界の人間と渡り合って生きていくなんて出来そうもない、と。東郷教授は、声は穏やかでしたが厳しいことばで私を叱りました。

「そんな弱気でどうするんだ。人間の価値・能力は英語を話す人間も日本語を話す人間もまったく変わらない。気後れは無用だ。君たちはどこに出しても恥ずかしくない立派な人間だ。世界に出ても十分やっていける力を持っている。それなのに、そんな引っ込み思案でどうする。自分の考えていること、やっていることに自信を持って、英語でアメリカ人をやっつけるくらいの気概を持ちなさい」と。迫力のある叱声でした。

私がこのことをよく憶えているのは、そのとき東郷教授は、私を睨みつけてそう言ったからではなく、遠いところを見るような深い目をしてそう言ったからなのです。

私はそのとき、ああ、先生は、半分は私に向かって、あとの半分はご自分に向かっておっしゃっているんだな、と感じました。

先生は、高いところからものを言う姿勢ではなく、私と同じ高さに立つ人間として私を叱って下さったのです。ですから、こころにしみたのです。

先生が、私を叱りながら励まして下さったことばを、そのままボランティアの学生諸君、中学生諸君に贈ります。

Re: 東日本大震災 第7回 追悼集会 大森第四団地2018.3.11 - 市民の会.

2018/04/05 (Thu) 22:41:27
*.home.ne.jp

7回目の追悼集会が、150名以上の参加という盛況のうちに無事終わりました。協力していただいた団体、個人には厚くお礼申し上げます。7年もの長期間、支援を継続していただいたことに深く感謝いたします。

市民の会は、追悼の会を7回とあと1つ開催してきました。市民の会が主催する追悼集会は、犠牲者を偲び、冥福を祈る会というよりは残された被災者を励まし、生きる意欲を強く持ってもらうためのものです。具体的には、コミュニケーションを重視するための炊き出しやコンサートという形式を多くとってきました。

おそらく仮設住宅団地で行う最後の追悼集会になるであろうと予想される今回の追悼集会は、被災者を励ますという目的のほかにもう一つの目的を設定しました。それは今まで追悼集会ばかりではなく、さまざまなイベントをいっしょに開催してきたボランティア、大学生、中学生の諸君にお礼の意味も兼ねて、彼らを教育しようという大胆な試みです。

そういう意図を持って行った今回の追悼集会ですが、それがうまくいったかどうかはわかりません。これは教室での教育ではなく、追悼集会という現場での教育です。現場にいた人たちのほかにも、この掲示板の読者にも判断していただこうと今回の報告は内容にかなり踏み込んで掲載しました。ほかにもこういうやり方があったのではないか等掲示板読者の方々のご批判をお待ちしています。

なお、掲示板への掲載が大幅に遅れたことをお詫びいたします。

2018年4月5日
石巻市復興を考える市民の会


名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.