石巻市復興を考える市民の会公式掲示板「その4」

石巻市復興を考える市民の会 公式掲示板4

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東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/21 (Thu) 22:37:39
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2019年3月10日に新渡波復興住宅団地の東集会所で、「東日本大震災8周年追悼前日集会」を団地自治会、市民の会、ボランティアサポート村山、みどりの会、九州ラーメン党の共催で開きました。他に参加は成蹊大学ボランティア本部UNI東北プロジェクト(参加21名)、チーム・ジェフリー(参加5名)、山形県村山市から高校生28名です。

市民の会関係では、小田原から川口さんご夫妻、秋田から永瀬さん、つくば市から竹森さんご夫妻、東京から藤田理世さんが参加しました。

写真は成蹊大学の学生が、到着後に早速集会所に入って復興団地住民のみなさんと交流を始めたところです。上にかかっている横断幕は成蹊大のみなさんが作ってくれたものです。


Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/21 (Thu) 22:46:39
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山形から高校生が到着しました。市民の会の川口さんと九州ラーメン党のみなさんが出迎えです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/21 (Thu) 22:57:08
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集会所の表側ではボランティアサポート村山、みどりの会の皆さんにより、ラーメン炊き出しの準備が始まっています。今回の炊き出しは、「ボランティアサポート村山」「みどりの会」「九州ラーメン党」が共同で行います。

みどりの会の懐かしい顔が見えます。みなさんお元気でなによりです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 14:32:11
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集会所の中で、高校生、成蹊大生を前に藤田代表があいさつと作業の指示を行います。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 14:41:23
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雁部区長のあいさつです。復興住宅は完成しましたが、コミュニティづくりは、まだまだこれからになります。そういうときに遠く東京や山形から復興のお手伝いに来てくれて感謝しています、というお話です。

雁部さんの右奥にいるのは、牡鹿新聞の社主兼編集長の平塚さんです。平塚さんが仮設渡波第二住宅にいたときは、市民の会と渡波第二住宅とのパイプ役になって下さった人です。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 14:51:48
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雁部区長(自治会長でもあります。)の話を大学生や高校生が真剣な眼差しで聴いています。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 14:58:28
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高校生の、この真剣な眼差しを見て下さい。

素晴らしいと思いませんか。未来への希望と言えるものです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 15:19:02
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今回村山市から、二つの高校の生徒が参加しました。村山産業高校と東桜学館高校です。彼ら、彼女らは中学生のときに大森第四仮設住宅でのボランティアに参加しています。

まず、村山産業高校の生徒たちに校歌を歌ってもらいました。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 15:23:22
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東桜学館高校の校歌を歌ってもらいました。とても美しいメロディーの校歌です。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 15:28:02
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成蹊大の学生、東桜学館の生徒たちが広報チームを作って、これから追悼集会、炊き出し、「朝倉さやミニライブコンサート」の周知活動に出るところです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 16:43:04
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雁部区長夫人から九州ラーメン党へお礼の言葉がありました。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 16:45:45
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区長夫人の御礼の言葉を聞く、高校生や九州ラーメン党の人たちです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 16:49:17
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ジェフリー制作の映画「笑う東北」が上映されました。その一場面です。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 16:50:52
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映画に見入る高校生たちです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 16:53:21
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集会所の外では、牡鹿新聞の平塚編集長が高校生を取材しています。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 16:55:58
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ラーメン炊き出しの準備が進んでいます。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 16:58:10
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成蹊大生が復興住宅の人と話をしています。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 16:59:54
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ラーメンの具、ゆで卵の調理が進んでいます。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 17:02:04
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近所の人と話をしている、市民の会の藤田代表と永瀬さん。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 17:04:08
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九州ラーメン党の代表、濱田さんです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 17:15:11
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藤田代表が話しています。

復興団地で支援活動をするのは、実は難しいのです。ほとんどの復興団地では自治会さえ結成されていません。支援団体がそういう所に入っていくのはほとんど不可能なんです。

そんな中で雁部さんと知り合いになれて、この復興団地とつながりが出来たことは幸いでした...。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 17:30:05
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ジェフリーのライブが始まりました。今回は娘の愛歌さんも一緒に歌います。

「スタン・バイ・ミー」、「旅の宿」。愛歌さんと一緒に「乾杯」、「ハレルヤ」、「斎太郎節」、「ふるさと」を歌いました。

まったく、アメリカ人離れした日本語の歌の上手さです。ジェフリーは実は、日本人じゃないかという噂が流れています。英語はしゃべれないんじゃないかと。でも、本人は I can speak English too.と言っています。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 17:36:01
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ジェフリーが「斎太郎節」を歌うと、後ろでカラオケのスイッチが入り、みんなで大合唱になりました。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 17:38:37
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大量のリンゴがまわってきました。みんな喜んでいただきました。誰の差し入れでしょうか。あの人かな。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 17:41:25
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リンゴを食べる子どもたちです。かわいいね。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 18:10:16
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朝倉さやさんのライブコンサートが始まりました。
たくさん歌ってくれましたが、印象に残ったのは濃い山形弁で歌った「木綿のハンカチーフ」でした。

...わだすは、欲しいもんはねんだぜ、
ただ、都会の絵の具さ
染まんねえで、帰ってけろ
染まんねえで、帰ってけろ
......

乙女の真情があふれた歌い方で感動しました。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 18:29:36
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朝倉さやさんは、他にも「上を向いて歩こう」「おかえり」「花笠音頭」などを歌ってくれましたが、伸びのある高音に寂びのある声が効いて素晴らしい歌唱でした。

写真は花笠音頭を歌っているときのものですが、手拍子をしながらの歌は、聞いていて、とても元気をもらえました。ありがとうございました。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 18:33:16
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大学生がラーメンを作っています。美味しいラーメンでした。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 18:43:18
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二人並んで仲良くラーメン食べています。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 18:49:26
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みどりの会名物の「玉こんにゃく」です。みどりの会の炊き出しには、いつも付いてきます。スルメのだしがよくきいて、とってもおいしいんです。天下一品。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 18:51:33
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ママ~、ぼくも食べたいー...。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 18:56:32
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区長さんをはじめとして、復興住宅の人たちがラーメンを食べています。こうやって知り合いになって仲良くなって、コミュニティが出来ていくんですね。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 18:59:48
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子どもたちが、ひとかたまりになってラーメンを食べていますねー。コミュニティ形成は大人たちより子どもたちの方が早いような気がします。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 19:03:08
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成蹊大生がおしるこを作っています。評判が良くて、もうすぐなくなってしまいます。

成蹊大のおしるこは、市民の会としてもここ何年も食べていません。こっちに回ってくるまでに、なくなってしまうんです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 19:11:55
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集会所の中でも、ラーメンを食べながら話に花が咲きます。こうやって、近所どうしが知り合いになって仲良くなってくれるといいですね。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 23:05:39
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藤田代表と話すジニーさんと竹森教授です。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 23:09:53
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チーム・ジェフリーの3人、左からブラジル人のグスマン、アメリカ人のデビッド、同じくアメリカ人のライアンです。3人ともジェフリーの撮影チームの人たちです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 23:13:19
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みどりの会の矢萩さんと藤田さんです。会えて良かったですね。嬉しく思います。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/22 (Fri) 23:45:07
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実は取材者が気づかないでいるとき、高校生たちがラーメンをもって近所の家にデリバリーサービスをしました。かなりの軒数を配ったようです。

配った先では「もうお昼ご飯食べてしまった。もうちょっと早く来てくれればよかったのに。でもいただくわ」と言われたり「ありがとう」と言われたり、いい経験になったようです。

この写真はお借りしたものです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/24 (Sun) 11:57:55
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大震災を経験したAさんが、今、8年経った心境を赤裸々に語ります。以下
………
自分が助かって家に帰れなければ、お母さん、お父さん、子どもたち、兄弟たちに会えないのだから、まず、自分が助かることを考えて、その次に助ける行動に出てほしいんです。自分が助かることが何よりも大事です。私も家族のあいだで災害云々と話をしていて、私はどんなことがあっても助かるから、自分は親と兄弟には、自分のことは自分で助けなさいという話をしていました。何故かと言うと宮城県地震が起こる可能性があるということで、家の中ではそういう話をしていたんです。が、結局おふくろと弟は一緒に避難したんですが、津波に巻き込まれて亡くなりました。私一人が生き残って身体中アザだらけで13日に自衛隊にヘリコプターで屋根から上げてもらって、それで助かったんです。

地震があったときは、会社にいて、そのまま家に帰ったときおふくろと弟が家の片付けをしていました。オヤジは平成23年の2月に見送っていて、家にお骨がそのままあったんですが、家は全壊流出で畳もなく、柱も1本もなくて、オヤジのお骨は流されてなくなりました。おふくろと弟は4月に自衛隊に見つけてもらって、東京の四谷斎場で火葬してもらってきました。

実際のこと言うと、後ろから来た津波にあっという間に呑まれたんです。振り向いて(家族を)助けに行こうかなと思って前向きになったときだったから肋骨折っただけで助かったんですが、後ろ向きで津波に遭っていたらどうなっていたかわかりません。

その後、避難所でも大変でした。いろんな人がいて。5歳の子どもがおもちゃで遊んでいて、若いお兄ちゃんがその子を怒鳴りつけて、お母さんを百二、三十人の前に引きずり出してきて、みんなの前で謝らせていました。そのお母さんは耐えられなくなって居なくなってしまって、おじいちゃんとその子だけがちょっとの間だけ避難所にいましたね。そういうこともあって、避難所では大変な思いをしました。私いま67キロですが、その頃は51キロくらいまで体重が落ちました。

4月14日ですかね。自衛隊の一斉捜索がありまして、そのなかで一番偉そうな人に、おふくろと弟が行方不明でまだ見つかってない、湊第二小学校の校庭の方に流されていったはずです、引波だったので南側の、海側の方にいるかも知れないということを話しました。その日に遺体をあげてもらって、次の日に石巻の遺体安置所に行ったら、胸に遺体のナンバーつけたL判の写真がブルーシートに何百枚も貼られているんですよ。真っ黒になっている、頭しかない遺体とか、若い女の人で、わりときれいに載ってる写真とか、ここに(Aさんが胸を指して)遺体ナンバーが出ていて、私が行ったその日に、わたしの弟がCの1...で免許証持っていたので、行方不明者のリストで名前が載っていて、それを見たときにはショックでした。その次の次の人が1....番、おふくろで「70-90歳、女性」というだけで、私は弟とおふくろだなと思って、申請書出して面会の手続きを石巻市の職員に出したところ、検死が終わってないからダメだと言われたんですが、私は持っていた免許証で身元を証明して、そのまま遺体安置所に行って、おふくろと弟の遺体袋を開けて、顔と持ち物を確認しました。おふくろの財布に見覚えがあって、「あ、おふくろだ」と間違いなかったんです。その次の日、親戚と一緒に行って身元確認しました。東京の斎場に行って帰ってくるとき、お骨を引き取るときに、私DNAを口から採取して市の職員に渡しました。1年後に「DNA鑑定の結果、親子・兄弟に間違いない」と言われたのがこれなんです。(前列の学生に写真を提示)弟の爪と歯なんです。火葬してきたから、入れ歯はそのまま残して遺体から爪を剥がして私とのDNA鑑定で識別して、翌年の1月に親子関係間違いないということでした。なかには、うちのお婆さんだと言っていて1年後に否定された人も大分いると思うんです。行方不明者470名いますがね、だから、まだまだ分からない人いっぱいいると思います。

これが(前列の学生に写真を渡して)弟の免許証で、写真撮ってはダメだと言われたんだけど、毎日ブルーシートに何百枚も遺体写真載るわけですよ。それで、こっちに身元不明者の一覧表がリストで載ってくるわけでね。市の職員に絶対写真撮らないでくださいと言われているんだけど、一応顔だけ撮ったんだ、その写真。

見た感じはね、かわいそうでね。顔が3倍くらい膨れて、弟は目を見開いてて、私が目を閉じたんだけどね。もう怒っているようでね。私PTSDで1年後に、4月頃に現場に行ってみたら、弟の声がきこえるんですよ。「なんで助けてくれなかったんだ」と。そういうような感じです。

大川小学校も同じです。23年4月に、私バイク借りて行ったときに、やはり「おんちゃん、助けて」という声が風と一緒に聞こえるんですよね。温かい風と一緒に。その頃いろんな幻聴・幻覚がいっぱいあって、今でも振り向くと黒い影なんかはよく見ます。まだそばにいるような感じがします。だから、お化けってよく言うけども、桃生小学校から20キロくらい離れてるところからバイクで来たんですけどね、途中でいつも被災地に行くと、いつも座ってるおじいさんとか、歩いてくる女の子とか、そういうのは同じ場所に同じ人たちをよく見ます。振り返るといないんだけどね。まっすぐ行くと見える。まあ、そういうふうな感じにはなってしまいますね。遺体を常に、毎日五、六体ずつ、3月に遺体安置所を開所してから見つかるまで、もしかしてこれがおふくろか弟かという遺体は全部申請書出して、毎日警察の人立会のもとに荷物とか、遺体袋開けて顔確認して「これ違います」ということで、毎日遺体見ていたしね。あと親戚なんかも安否確認で避難所に、被災所に行くと遺体転がっているんで、遺体踏んづけたこともあるしね。津波行くときに上着脱がされて、引き波で今度ズボン脱がされて、みんな衣服のない、真っ裸な状態で裸になったりしてる状態でね。

私、津波に呑まれて上下わかんないときにどうすっかと思ってね、自分このまま生きるか死ぬか、どうすっかなと思う時間は数秒だと思うんだけど、実質的に体験してみると自分の時間としては1時間ぐらい十分あります。どうしようかなと思って2月に親父亡くして、まだお墓も建ててないし、位牌も作ってないし、私が死んだらおふくろも弟もダメだなと思って、それで生きようかなと思って、生きるしかない。私が全部一人でやるしかないなあと思ったのが、アカっていうウキが顔の上にあったの、それに、右肋骨折られたから、左手で捕まって、そのまま流されて、そのアカがあっから、ガレキなんかから多少は守られた。私は肋骨折られて身体中切り傷だらけ、サッシなんかで身体中切られたり打撲して紫色になったけど、結局全部治って、指も手も足もみんなあるからね。

あのとき破傷風で脚を切った人いっぱいいます。切り傷からばい菌入ってね。私は破傷風にはならなかったし、手も脚もみんなあるからね。ただ、ガレキに埋もれたときに、海水飲み込んだときに「あ、やっぱり海水なんだ、津波なんだな」と思ったときに、あとから(陸に)上がってきたときに全部吐き出して、胃は全部空にしました。そうでないと、肺炎とかいろんな合併症、疾病が…色も真っ黒だったしね、それで一応は内蔵関係は大丈夫でした。

(写真を出して)これが私の家なんだ。2月にオヤジを日赤で看取ったから、私ここにいるけど、在宅でそのまま介護してたら、家からは絶対逃げなかったと思う。オヤジと一緒にいたと思う。そうなっと、その状態だから、柱1本もないからね、海のそばだったからね、まあ、命はなかったと思うね。その他にも流されているときリュックサックなんかも引っかかって津波に2回引きずり込まれて、死にかけて、這い上がってきたときに雪がすごくてね、真っ白になって雪だるまみたいになったけど、おふくろも弟もダメだなと思うと悲しくて涙がパーッと出たときにも全然寒さ感じないのね。なんでこうなったかずーっと考えて寒さ感じないんだけど、その後に「チキショウ生きてやろう」と思ったときは寒かったね。

(写真を示して)これが知らない人の家なんだけど、二階まで津波来た、そこに入って、衣服全部脱いで、真っ裸になって、呑んだもの全部吐き出して、乾いている布探して身体中に巻いて、ヘリコプターで上げてもらったときには靴下も肌着も何にも着けてない状態で、ただ布巻いている状態で上げてもらった。

(写真を示して)これがおふくろと弟の遺体が見つかった所で、ずうっと祭壇作って線香あげてたんです。自衛隊の人が、それ、風で飛んでも直してくれた。百ヶ日が6月5日で、その日に自衛隊の人から「百ヶ日になっから、オヤジのお骨探すのやめたい」と言われて、「だから、この祭壇も片付けなさい」と言われて、6月5日のオヤジの百ヶ日には自分で探すのやめて、あと自分のことは自分でしようと思ってやった…

避難所にいたときには、一人だけど家建てて自立再建しようと思って、それで一応家は建てたんだけど、家建てるところまでしか目標作ってなかったから、今は、次何やっていいか分かんなくてね。そうなってくると、今度は、4回も死にかけるとそのときに死んでしまった方がいいなと思うようになった。何かあったら、自分で目標立てようとするときには、もっと長期的な目標立てたほうがいいなと思うね。ずうっと10年後、20年後まで考えたときの行動を起こさないと、私はもう「家建てたら」で止まってしまったから、あと何していいかわからないで、ちょっと今大変なことにはなっているね。

いろんな人がいるから、さっきも言ったけど、車で亡くなった人のバッグからお金取ってきて自慢してる者や、亡くなっているおばあさんの指から指輪抜こうとしたら抜けないからと、そのおばあさんの指折って、このモノ持ってきたとか、そんなの自慢しているような人がいっぱいいてね、人としてはどうかなと思いつつも、いい死に方しねえなと、そういう人たちがいっぱいいてね。だから被災すっと自分の思う価値観でないことがいっぱい起こるから、最終的に言ったら自分の親が、もし万が一死にかけたときでも、自分が死んではだめだから、助けようとする努力は必要だけど、自分が生き残ることが何よりなんで、災害に遭ったら、どこに居てもちゃんと話して、自分で自分の命を守るようにしてください。

いろんな人いっからねえ、遺体を見たとき、市役所の遺体安置所の影で立てなくて泣き崩れていたとき、起こしてくれたのは陸前高田の家族の人、その人に起こしてもらってね、全然知らない人に励ましてもらって、それで遺体見ることが出来たから、やっぱりみんなと一緒に生きているんだなと思う。


Aさんの話は以上です。8年経った今でも、思った以上に凄まじい話でした。聞くに耐えないような話が多かったのですが、大災害が起こるとこうなるのだということを骨身にしみて理解することが出来ました。特に最後の、陸前高田の人の話は胸にしみました。

市民の会として、一つ言いたいことがあります。Aさんは肉親を亡くされて、自身の身体も傷ついて、心にも大きな傷を負っておられると思いますが、その心に受けた大きな傷の原因の一つに、石巻に心無い人たちがいたことが挙げられます。Aさんの話を聞いているとよくわかりますが、石巻には(石巻ばかりではないかも知れませんが、他の地域ではこういう話を聞いていません)人間の顔をした人非人がいるということです。
悪魔に例えるならば、つまらない、くだらない悪魔ではありますが(本物の悪魔がいるとしたらきっと怒髪天をついて怒るでしょうね)、確かに一応は人間の顔をしている人非人がいたということです。亡くなった人のバッグからカネを奪ったり、津波で水死したおばあさんの腫れた指から指輪を盗むために死体の指を折って、指を切り落として指輪を盗んだりしたヤカラのことです。しかも、避難所でそのことを自慢げに吹聴していたというのですから、呆れてものも言えません。
筆者は、このような猿にも劣る人間に、新しく名前を付けたいと思います。ホモ・サピエンス転じてホモ・サルイカ(ホモ・猿以下:猿以下の人間という意味です)というのはどうでしょうか。ホボ・サルイカ(およそ猿以下の意)でも良いかも知れません。このようなホボ・サルイカ(ちゃんとに言えばホボ・サルイカ・イシノマキーノ)を生んだ地域として、石巻はみずからを恥じなければなりません。このことは日本における震災史の一大汚点として永遠に残るでしょう。いえ、再発を防ぐ意味でも永遠に残さなければなりません。こういうことが事実としてあった、と歴史に書き残すのが人間としての義務です。この点で、Aさんの見識と勇気は讃えられるべきです。人間とは、こういう醜い一面を持っているのだという事実の確認は大事なことなのです。
このようなことがAさんを精神的に大きく傷つけたことは、Aさんの話からはっきりと窺えます。そして、このことはAさんばかりでなく、この話を聞くすべての人の心を傷つけるものです。私たち市民の会もいたく心を傷つけられました。容疑者は不詳ですが、傷つけられた人間を代表して、市民の会はここに窃盗、死体損壊のほかに世界中の人びとの心を傷つけた精神的傷害罪でも彼らホボ・サルイカ(Hobo・Saruika)を学名として登録申請するとともに世界に向けて告発するものです。
このように、殺害した敵兵や民間人の遺体から貴金属・宝飾品を奪う行為は『旧約聖書』や16世紀の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』にも報告例があり、近年ではベトナム戦争でのアメリカ海兵隊員にも同様の事例が見られました。これは戦時に発現する人間の浅ましくもおぞましい性癖の一つとして数えられてきましたが、石巻では戦争でもないのにホボ・サルイカ・イシノマキーノが発見されました。地元にとっては非常に恥ずかしいことです。
市民の会の一会員として、私は自分のことを多少は知っているつもりですから、本当はこんな偉そうなことは言いたくないのです。「お前はいったい何様のつもりだ。そんな偉そうなことが言えるのか」と言われてしまいそうです。しかし、そう言われるリスクを冒しても、このことは誰かが言わなければならないことだ、と判断したので敢えて告発しました。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/24 (Sun) 17:04:40
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次に藤田代表の話です。申し訳ありませんが、これも途中からになってしまいました。以下

………
家族が流されて死んで、僕も死んだんですよ。僕も死んだんです、本当に。どうしようかと思いましたよ、本当に。それで二階に逃げて、窓から見ると周りはみんな海でしょう。人ってね、あり得ないことが実際に起きていると、「えー」とか「あー」とかしか思わない。で、しばらくしてから「なんか映画みたいだなあ」とか「夢だな、たぶん」とか、その程度しか思えないのよ、「ホントなのかな」って。でも、もう半分の気持ちはわかっているのよ。「ああ、俺の家族は死んだんだ」とか、わかってるんだって。わかっているんだけど、でも、ホントなのかな、いや、ホントであって欲しくないから、その気持が揺れに揺れてさ、それで8年目を迎えたわけ。

で、今Aさんがね、家を建てるという目標決めて、頑張って家を建てた。そしたら、明日からもうどうしていいかわからん、というそれは僕もまったく同じなんです。だから、あのとき僕は死んで、いまようやく8年目。いつまでもこれじゃダメだなと思うんですけどもね、じゃあ、どうすればいいのか誰か教えてくれって、僕言ったことあるんだけど、誰も答えを教えてくれないから自分で見つけるしかないんだけど、見つけられない。たぶん、Aさんも同じですよ。それで、僕と彼と同じなのは、一人になってしまったということ、家族が無くなって、たぶんAさんも同じだと思いますけど、何が食べたいっていう気持ちはほとんど無いと思います。マグロ食べたいとか、牛肉のステーキが食いたいとかね、たぶんないはずです、Aさんも。僕もないから。で、食事しても美味しくない。どうして食事って美味しいのかなと思ったら、自分の大切な家族と一緒に食べていたから美味しかったんですよ。今日、お父さんに美味しいもの食べさせようとか、お母さんに美味しいもの食べさせようとかいう気持ちがあるから頑張ってくるわけでしょう、みんな。で、その頑張るための人が消えたんだから、頑張る必要が無くなった瞬間に、もう食べたいと思わなくなっちゃったんだね。で、ほんとに僕Aさんの話を聴いてて「いやあ、俺の話とまったく同じだな」って、その気持が。自分がどうしていいかわからないんですよ、ほんとに。

これでまた、家族がいたらね、「こうしよう、ああしよう」って、励ましになるんだけど、お互いに。さっきも言ったように、「俺の話し相手は壁だ」って、壁に向かってしゃべっているから僕は。壁のいいところは口答えしないから、壁はね。喧嘩にならない、絶対に。だけど、それがどんなに孤独で虚しいか。だから、僕は今Aさんの話を聴いて、自分の心の中とまったく同じだなと思って聴いていました。ほんとに辛いお話をしてくださってAさん、ありがとうございました。


以上で藤田代表の話は終わりました。藤田さん、Aさんに向かって深々と頭を下げて、一礼しました。

写真は真剣な表情で藤田代表の話を聴く高校生と大学生です。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/24 (Sun) 21:28:44
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ジェフリーが監督・制作した映画「Then and Now」が上映されました。

この映画は震災の数ヶ月後に撮影され、その時点で「あのとき、そして、今」と題されましたが、その時からも、はや8年近くが経ってしまいました。
この写真に写っている画面で、字幕に「ぼくが石巻について、こうやって話していても、復興をイメージすることさえ出来ません」と出ていますが、この言葉は8年後の今も生きています。どういうこと ? 映画の中で藤田の言葉は続きます。

藤田
「今でも、これからどうすればいいんかろうかと、What shall we do?その答えは誰も見つける事ができないまま、8ヶ月が過ぎてしまったんですね」。

山神
「国も県も被災者に対して一つ明かりを灯してくれれば、そこに向かってみんな羽ばたくんです。明かりがないんです。どこに向かって頑張っていいかわかんない。先行きが見えないから自殺者があるんです」。

藤田
「石巻市に関して言うとね、復興は非常に難しい、インポッシブルだと思っています。おそらく、出来ないんじゃないかと思っているんですね。それは、どういうことかと言うと、ビルディングはリ・コンストラクション出来るかもしれませんね。ただ、この心、精神ですね、心と心で会話が必要なんですね。で、ご存知のように仮設住宅のようなところでは、自分の隣りに誰がいるかわからない。ですから、会話もない。つまり心と心の触れ合い、交流がないんです。で、僕たち何を考えるかと言うと、そういう孤独を感じている人、悲しみを感じている人、いつも泣いている人たちに手を差し伸べること、「どう、元気 ? 」それで「今度は炊き出しをしましょう」と…まずは、そこから。そうしませんと孤独を感じている人は最後は自殺を選ぶんですね…大体二人に一人は未だに失業、仕事を見つけることが出来ない状態ですね。…石巻市はね、今一ヶ月10人自殺してるんです。だから、三日に一人ずつ自殺してるんです」。

この映画で言われていることは8年経過した今、仮設住宅から復興住宅に舞台が移っただけで何一つ変わっていません。「これからどうすればいいんかろうかと、What shall we do?その答えは誰も見つける事ができないまま、8ヶ月が過ぎてしまったんですね」と映画の中で藤田が言っていますが、8ヶ月どころか8年過ぎても答えは見つかっていません。

藤田は震災の八ヶ月後、この映画の中で「復興は不可能ではないか」と驚くべき言葉を口にしていますが、その言葉は震災後8年の年月が経過した今、的中しつつあります。

この8年間に変わったことは復興住宅が出来たというだけです。そこに住んでいる人について言えば2011年と状況はまったく同じです。この映画の中で市民の会の藤田は「仮設住宅のようなところでは、自分の隣に誰がいるかわからない、だから会話もない」と言っています。この「仮設住宅」という言葉を「復興住宅」に置き換えると8年経った今も状況はまったく同じなのです。8年も経っているのに自殺についても同じ状況です。
この映画は今でも私たちに問題を提起し続けています。復興は建物だけじゃない、人間をどうするんだ、コミュニティをどうするんだと言い続けているのです。
8年近く経過した現在、こうやって見ていてもこの映画はまったく古びていません。映画の中で被災者が問いかけている問題は、今現在の問題でもあるのです。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/24 (Sun) 22:16:30
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被災した時間に黙祷しました。手に持ったお皿の中でロウソクが燃えています。

この灯火は私たちのこころの中にある不屈の意志を表しています。人災も含めて災害には決して屈しないという強い意志です。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/24 (Sun) 22:24:17
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古澤さんが引率してきた高校生に掃除、片付けなどの指示を与えます。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/24 (Sun) 22:38:56
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藤田代表の最後の話です。今日は遠いところを来てくれてありがとうと御礼の言葉とともに、防災に着いて話しました。

防災とはなにか。防災とは町の人がみんな生き残るためにやるもので他人事ではない。自分のため、家族のため、町のためにやるもので、町作りの基礎となるものだ。そのためには、この道路でいいのか、この建物でいいのか、この堤防でいいのか、みんなで考える、考えることが大事なんだ、いいね。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/24 (Sun) 22:46:30
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今回の追悼会から、大学生以上の年齢のボランティアさんには100円の寄付をしていただくことにしました。復興住宅街に設置された集会所を使えば当然、光熱費、水道を使いますから地域に負担を掛けることになります。復興住宅街は誕生したばかりの新興住宅街であり、町内会自体に予算がありません。我々ボランティアが押しかけ、ガスや水道を湯水のごとく使えば町内会(自治会)に負担を掛けることになってしまいます。しかし、それではボランティアの意味がありません。

たとえ善意のボランティア行為であっても、およそ人が集まって何かをすれば経費というものが発生してしまいます。従来は、そのコストを市民の会が負担してきました。しかし、市民の会の財政はもはや破綻寸前。経費を市民の会が負担することは、不可能になったのです。

そこでこれからは参加するボランティアさんたちにも、地域集会所を使用した場合に発生するコストの負担をお願いすることにしたのです。来年以降も、自主的寄付をお願いすることになると思います。宜しくお願いいたします。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/24 (Sun) 23:51:17
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高校生が山形に帰っていきます。

今回、ちょっとびっくりした話がありました。村山産業高校の女子柔道部員が、集会所に置いてある炊事道具を見て「あっ、これ、お父さんのひっぱりうどんの道具だ」と声を上げたのです。

山形県村山市のみどりの会は復興の初期の段階から石巻に来て、被災者のためにたくさん炊き出しをしてくれました。

それも、今まで私たちが見たこともない珍しい山形の郷土料理をたくさん作ってくれたのです。中でも印象に残っているのが「ひっぱりうどん」でした。

鍋の中からうどんを引っ張り出してたべるのですが、びっくりしたのは上に載せるトッピングの多さ、ユニークさでした。

2012年に、湊分館で食べたひっぱりうどんが忘れられません。このときは被災者のためと言うより、私たちボランティアのためにつくってくれたのです。ですから、なんの遠慮もなくいただくことができました。その時は20種類近い具が用意されていました。

スチール製の棚に載せられた、たくさんの具を見て「こんなにたくさんあるのか」と、私はめまいを覚えたほどでした。

一番印象に残っているのは納豆でした。それまで、納豆をトッピングしてうどんを食べたことはありませんでしたが、食べてみると実においしかったんです。

そのあと、どこかの仮設住宅で、もしかすると追波川河川住宅だったかもしれませんが、ひっぱりうどんを出してくれました。そのときは、もちろんボランティアの口には入りませんでしたが、そのいずれかのときに、その子のお父さんは自分が大事にしていた道具を置いていってくれたんだと思います。

その道具を、6、7年経ってから、成長して高校生になった娘さんが石巻にボランティアに来て見つけたのだと思います。

数年の間をおいて親子でボランティアに来てくれたんだなあ、と市民の会も感激しました。ボランティアの志を親子で受け継いでいるなんて、何と素晴らしい人たちなんでしょう。

この女生徒は、お父さんの背中をみて育ったんだなあと深く感じ入りました。経済格差がはびこる、この荒廃した地球社会ではありますが、まだまだこの社会は捨てたものではないと思わせてくれるエピソードでした。ありがとう。

古澤さん、二日間に渡る強行軍、ご苦労様でした。古澤さんがいなければ中学生や高校生に文化としてのボランティアを伝えることは出来なかったと思います。この経験は必ず彼らのこれからの生活に役立つと考えています。

ボランティアは一方通行ではなく、良き力が双方向に働く、助け合い、支え合いだと思っていますが、それにしても仲立ちになる人がいなければ成り立ちません。そういう意味で古澤さんにはとても感謝しています。ありがとうございました。

Re: 東日本大震災、8年目の追悼集会 市民の会.

2019/03/25 (Mon) 00:20:23
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成蹊大学の学生が帰っていきます。

今回、成蹊大生はおしるこを作り、ラーメンを作り、とても活躍してくれました。

朝、到着して早々に集会所の中で座り込んで、居住者たちと交流を始めた姿に、いつもとは違う意気込みを感じました。

ボランティアの肝は何と言っても自発性です。自分たちで計画して、率先して働く。

何もないように見える所で、率先して問題を見つけ、考え、答えを導き出す。社会に出ると自発性が評価されます。指示待ちではダメです。

私たちは、今日一日ですが、ともに働き、ともに学び、同じ飯を食いました。いろいろと考えるところがあったと思います。

短い間でしたが、私たちはここで友情と信頼を共有出来たと確信しています。また、お目にかかりたいと思っています。ありがとうございました。


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