石巻市復興を考える市民の会公式掲示板「その4」

石巻市復興を考える市民の会 公式掲示板4

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西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/06/09 (Tue) 18:01:47
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2020年2月12日午後4時から、神戸市三宮の東急REIホテルにおいて行われた西本願寺聞真会の研修会で、市民の会藤田代表の講演が行われました。その内容を概略報告します。報告が遅くなり申し訳ありません。

写真は講演開始30分前の会場です。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/06/15 (Mon) 21:58:06
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聞真会における藤田代表の講演、まず司会者のお話から始まりました。

早速、研修会に入りたいと思います。平成23年3月11日に起こりました東日本大震災、今年3月になりますと9年ということになります。われわれ阪神淡路の大震災を経験したものとしては、(東日本の)震災当時かなり募金活動をしたり、ボランティアに行ったりとか、そういったことをやったんですが、あれから8年経ちますと、そういったこともかなり薄らいできたとそういう頃ではないかと思います。現地では仮設住宅もだいぶ解消されてきまして、ニュースからも遠ざかってきたようなところもあるんですが、実際現地ではどういうふうになっているのか「石巻市復興を考える市民の会」の藤田代表に来ていただいて、お話をお聴きしたいと思います。
こちらに来ていらっしゃる「あかとんぼ」の米村さんと私は以前からかなり親しくしておりまして、米村さんがチャリティーコンサートをして、その収益金を向こうに送ろうと、そういう活動をしていたのですが、これをどこに送ろうかと相談がありました。われわれもあちこちに義援金とか募金とかを送ったりしていたのですが、どういうふうに使われているのかがよくわからないですし、一方通行で送るだけで、果たしてこんなんでいいのかなと思うところがありました。それで顔の見える支援をしようと、そういうふうに呼びかけまして、「あかとんぼ」さんに東北に行ってくださいとお願いしました。このとき拠点になったのが仙台にある西本願寺の東北別院、そこの重枝さんという方に電話しました。当時仙台別院ではボランティアに限っては無料で宿泊をお受けしますということがありました。私もあかとんぼさんに行ってくださいとお願いしたときに、出来れば安い所を探したいということから仙台別院を紹介して、仙台別院の方が「あかとんぼ」さんを石巻の藤田さんに紹介したとそういった形から仮設住宅、避難所での歌声喫茶が始まったということでございます。その辺のところもひっくるめてお話願えたらと、また震災後藤田さんは熊本であるとか千葉の方であるとか、あちこちに支援の輪を広げております。その話も聞けたらと思います。それでは藤田さん、よろしくお願いいたします。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/06/18 (Thu) 14:55:24
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藤田代表の話(1)
みなさま、今日はこの場に私を呼んで下さいましてありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。私は宮城県石巻市から来ました藤田利彦と申します。
今日初めてみなさまとお会いするというかたちになるのかも知れませんが、実は2011年3月11日の震災以来、西本願寺のみなさまに大変手厚い支援を受けてきた人間の一人なんです。そのことを、石巻から関西の方まで出向いてきて感謝の言葉を伝えることはなかなか難しいことなんです。ですからチャンスがあればぜひとも皆様に感謝の言葉を伝えたいと思って、この9年を生きてきました。今回こういうチャンスを頂きまして、ようやく9年目にして西本願寺の皆様に感謝の言葉をお伝えできるなあと思って駆けつけて参りました。まもなく9年ですけれども、皆様には手厚い支援を頂きまして心から感謝しております。9年目になってしまいましたけれども、感謝の気持ちを伝えさせてください。どうもありがとうございました。
今からちょっとお話をさせて頂きます。まず、笑い話になるんですが、石巻を出発するときに「どこに行くの」と言われて、じつはこれこれのところに行ってきますと言ったところ、周りの友人たちも含めて、「なんか変な話だなあ」って言うんですね。「なんで変な話なの」って聞いたら「要するに西本願寺さんが集まっているわけでしょ」と言うわけですね。「そうだよ」って言ったときに、東北はですね、西本願寺さん、浄土真宗の皆さんとふだんの生活で周りにあまりいないんですね。どちらかと言うと曹洞宗、永平寺さんのお寺さんが多い地域です。なので、私たち東北の人間が西本願寺さんというと実は最初の出会いは中学校に入学して日本史の教科書をもらったときに、勉強していると西本願寺さんが出てくるんですね。そういう方々なんです。それともう一つ、修学旅行ですね。修学旅行で西本願寺さんをお参りしてという、逆に言うと遠い雲の上の人たちといいますか、向こう側にいると言いますか教科書の中に生きていられる方々というかそんな感じなんですね。ですから、そこで私が話をするっていうのは「それは逆じゃないの」っていう話になったわけです。「西本願寺のご住職の皆様がお話をされて、君が着席してお話を聞かせていただくとそういうことなんじゃないの」と言われたんですが、「いや今回は逆なんですよ」という話をしたら「いやあ、変な話があるもんだなあ」と、でも「感謝の気持ちを伝えてきなさい」と言われて今日この場に来ることが出来たんです。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/06/18 (Thu) 15:09:24
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藤田代表の話(2)
簡単に私のことを話しますと2011年3月11日、私は石巻市の自宅にいました。目の前が太平洋、海です。直線距離で800メートルのところに私の家が建っているんですね。それで2時46分でしたが、突然聞いたこともないような1トンの爆弾が落ちたような音、ドカーンという音がして、ワアーって言った瞬間にガタガタガタっときて、もう立っていることが出来なくて床に伏せて亀のような状態になってしまったんですね。それでそのとき時間を計っていた友人がいて「6分揺れていた」と言うんですね。私は「長かったなあ、ほんとに長い揺れだったなあ」とそれしか記憶がないんですね。6分の揺れがようやく終わって、じつはあの地域は過去に大きな揺れが何度もきていますので、建築基準法の耐震基準が強い基準で設定してありますので、じつはあの時点で家が倒壊したわけではないんです。それが証拠に私は二階から外を見たんですが、地域のおばあちゃんたちが集まってきて笑っているわけです。「ああすごい地震が来た。まさか、生まれてこの方、こんな地震に見舞われるなんて思わなかった」。そのときは皆さん笑顔だったんです。「すごかったなあ」「すごかったなあ」とそこまでは幸せだったんですが、それからおそらく30分か40分もしないうちに信じ難いほどの津波が来たんですね。いや、「まさか」でした。地域の人たちは油断しきっていましたので「アッ」と言った瞬間に津波が来たんですね。
私はその時、家の中に母と叔母とビーグルの犬と私と3人と1匹で仲良く暮らしていたんですが、アッと言った瞬間にガラス越しに目の前に真っ黒い津波が見えて「津波だッ」て言った瞬間に「ドーン」という巨大な爆発音と共に、家族全員がその津波に呑み込まれて、私だけが、私は偶然そのとき階段に立ってましたので、階段は天井がないので水圧で飛ばされて、踊り場のような所まで突き上げられたんですが、天井がなかったのでおぼれて死ぬことがなかったんです。ところが、私以外の母と叔母は津波に呑み込まれてもみくちゃになって命を落としてしまったんです。
私は最初家の中で母と叔母を探したんですが、一階は完全に水没して、私は真っ黒い泥水の中を目をつぶって泳ぎながら手探りで母と叔母がいるんじゃないかとずうっと探したんです。が、どこを探してもいないので、もしかしたら、家の中にたんですけれども、外に流されたかなあと、まだ(津波の)流れがあったんですが、外に出たんです。それでほとんど記憶ありませんけれど、流されますので電信柱につかまりながら、いろんなものにつかまりながら大きな声で母の名前を叫んだり、叔母の名前を叫んだりしながら「生きているなら返事をしろ」と大きな声で叫びながら探したんですが、結局返事は返ってきませんでした。何時間探していたのか記憶ありませんが、日没、そして雪がたくさん降ってきて自分自身も首から下の感覚がないんです。どうやって家に戻ろうかなと思いながら、いろんなものにつかまりながらようやく家にたどり着いて、濡れた服を脱いで裸になって二階に逃げて毛布で体を包んで、そこから先はほとんど記憶がないんです。でも、自分の家族はこれで全員死んでしまったんだなと、それは覚悟しました、その瞬間に。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/06/19 (Fri) 21:20:40
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藤田代表の話(3)
それと二階の窓も巨大な揺れで全部吹っ飛んでしまってサッシも窓ガラスも何にもないんです。カーテンだけが風に揺れて、ものすごく寒い、雪降ってましたのでね。寒いなあと思いながら、着替えもありませんから素っ裸の上に毛布だけ羽織って。人間は何で下着を身に着けるのかということが、あのときよくわかりました。下着をつけないとスース―すきま風が入ってきて、大変つらいんです。いくら毛布を体に巻き付けても下着をつけてないのですきま風が入ってきてずうっと震えてました。奥歯がガチガチ震えて、つらかったなあという記憶と家族が全員死んでしまったという絶望感ですね。それで疲れたので考えるのをやめようと思って、寝ようとしたんです。ところがああいう状況になると、寝ようと思っても寝られないんですね、興奮して。眠ることも出来ないのかと思ってカーテンを開けて空を見たときに、昼間なのかと思うくらい無数のお星さまが輝いていたんです。おそらく、このあと死ぬまでの間あんな夜空を見ることはないだろうな、と思うくらいすごく明るかったです。実は多くの生存者の方々がまったく同じことを言うんです。まさに天変地異とはこういうことを言うんだなと。
そこから実は僕の第二の人生が始まりました。もう自分の家族が死んでしまったので水も飲みたいと思いませんし、食べ物も食べたいと思いませんでした。二階でボーッとしていたんですが、ただ、声が聞こえてくるんですね。どうしたのかなと思って屋根に出てみると、助かった人たちが助けを求めているわけです。それで僕は、自分の家族は守れなかったけれども地域の人たちを助けなければいけないなとその時に思いました。なんとかしておにぎりをどこかから見つけて持ってこようと、弱っている爺ちゃんや子供たちにおにぎりを食べさせたり、ミルクを飲ませたりと思ったんですが、そこから僕の第二の人生が始まったんだなあと今は思います。簡単に言うと藤田と言う人間はこういう人間だということです。
私は明治大学を卒業して、見かけとは違って研究者になってみようかと思ってそのまま大学院に入って研究をしていた時期があるんですが、学者の世界はなかなか閉鎖的な世界で、活動的だった僕にはあまり向いていない世界だなと思いました。それで、そのあとすぐ大学を飛び出して小さい町の学校で政治経済学を教えていたんです。あるときドキュメンタリー番組を見て沖縄の方に行けば行くほどお医者さんがいないということを知りました。そこで、学校の仕事をやめて、大学に入りなおして医者になろうかなと思って受験勉強をもう一度始めていた時に津波が来て、ある意味自分の人生がすべて終わってしまったわけですね。めちゃくちゃになってしまったわけです。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/06/25 (Thu) 23:16:21
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藤田代表の話(4)
それで本題に戻りますが、津波が来て、自分の家族が死んで、自分が一人だけになって自分に何ができるかというところで、まず仲間を一人、二人見つけて行こうと考えたんです。それで3月12日になって、少しずつですけれども復興というものに自分も尽力しようと、それが一か月経過して二か月経過して不思議なことに仲間が増えていくんですね。人というものは不思議なものだと思います。
こういう地獄のような状況でマッチ一本すって蝋燭に火をつけて、なんらかの松明を灯したいということをひとこと言った瞬間に心ある方々が次々と集まってきてくださって、人間はやっぱり清く正しく美しくじゃないですけれども、まっすぐに生きるべきだなと改めてその時思いました。
ちょうどその頃、電話が来たんです。電話を受け取って「はい、藤田です」と言ったときに「私どもは東北教区ボランティアセンターの者ですけれども」と僕にとって聞いたこともない、いったいどういう人達なんだろうと思って「失礼ですがどういう方ですか」と聞いた時に、自分たちは西本願寺に所属する者で、仙台にある東北別院の中にボランティアセンターが立ち上がっていて、西本願寺のご住職の皆様がスタッフとなって動いているボランティアセンターで全国のボランティアさんたちを集めて被災地に送っていると、それで藤田さんたちが運動しているということを聞いて直接、交渉に入りました、という説明でした。僕もその時は西本願寺、浄土真宗のご住職の皆様と聞いて「いやあ日本史の人たちだなあ、教科書の人たちだなあ」と思ったんですよ、教科書で習った人たちが電話してきて救いの手をとおっしゃってくださっている、それまで僕は浄土真宗の人たちと接触したことがありませんでしたので、いやあこんなことがあるんだなあと思いました。その時にさまざまな提案を受けたんですが、じつは歌声喫茶というものを行いたいと、それでそういうニーズがあるのであればお手伝いをさせてくださいという申し出をしていただいたのです。あの当時、2011年ですが、小学校、中学校、高校の体育館に段ボール箱を広げてその上で被災者の皆さんが寝泊まりしていました。すぐカビが生えるんです。床の上に段ボールを敷いて寝泊まりしていると、寝汗やら何やらで段ボールにカビが生えてくるんです。何百人とごっちゃに寝ているもんですから、普段でさえ弱い人たちがそういう所にぎゅうぎゅう詰めで歯も磨けず、お茶も飲めず、津波で入れ歯を失くした人もいれば、持病を持っている人は常備薬も失ってしまったという人たちが千人単位でごちゃごちゃいるわけですから、こんなところで床からカビが生えてくればアッという間に感染症ですよ。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/06/26 (Fri) 21:20:22
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藤田代表の話(5)
そういう状態が続いている中で石巻市は2011年の7月頃から仮設住宅を建て始めました。仮設団地が出来て、仮設住宅に一人一人入居が始まりました。ところが残念なことに石巻市は抽選方式で入居を決めていきましたので、当選して、あなたは1号棟の1号室に入ってくださいという時に、指示されてそこに引っ越していくわけなんですが、隣の部屋はまったく関係ない地域の会ったことも見たこともない人が住んでいるわけです。そういう状況で入ってしまったのでコミュニティがどうのこうのというレベルじゃないんです。知らない人ですから挨拶も出来ません。それで、皆さんすぐに部屋の中に閉じこもってしまって鬱々としていたんです。阪神淡路大震災の教訓から、仮設団地を建てると集会所というものを必ず作ります。集会所を活用して自殺を防止しましょうとそういう観点でコミュニティ作りの道具としてお使いくださいということだったんですが、実は僕たちが訪ねていってみると集会所には例外なくカギがかかっているんです。まだ環境の良くない仮設住宅で、みなさん路上で立ち話しているんですが、僕が、「集会所あるのにどうして使わないの」って言いますと「いや、カギかかっているから」って言うんです。「そのカギは誰が持っているの」って訊くと、役所が持っているんですね。「ここに住んでいる人が好きな時に使うためにはカギを自分たちで持っていなくちゃダメじゃないの」と言ったんですが、「いや、役所が持っているから」。それで僕はすぐ役所に行って、その当時は僕に車ありませんから、街自体に車がなかったんで車がなくても当たり前なんですが、ガレキ置き場から拾ってきた自転車をなんとか修理して、それで30分、40分かかって自転車こぎながら市役所まで行って交渉したんですね。それで役所の人たちとすったもんだの議論しながらようやくカギを奪い返して、また自転車こぎながら戻って「カギ持ってきたぞ」っていう話をしながらカギを渡して、「このカギで集会所開けて、みんなでコミュニティ作っていきましょう」という話をしたんですが、いやあ、口で言うのは簡単ですが、カギを取ってきたところで、集会所開けて電気つけたところで、誰も来ないんです。だから、カギ開けても何もすることがないわけです。どうすればいいのかなと僕は思いました。すごく悩んだんです。「よし、お茶を飲もう」と言ったんですが、お茶とせんべい用意して、みんなに「おいで」って言ったんですが、一人、二人は来るんですが、抽選方式でみんなバラバラに入居した人たちがそこにいますんで会話にならないんですよ。黙々とお茶を飲んで、黙々とせんべい食べて帰るっていう状態でした。お通夜ですよ、シーンとした。これは大変な事態だと思いましてね、正直どうしていいかわかりませんでした。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/06/30 (Tue) 21:36:04
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藤田代表の話(6)
 その時に、仙台の東北別院様から、「神戸で歌声喫茶をしている米村さんという方がおられて歌声喫茶というボランティアの支援活動が出来ますけど、藤田さん、興味がありますか」という電話があったわけです。ところが僕は歌声喫茶という言葉しか知りませんので。実際には見たことも、聞いたことも、参加したこともありませんので、その時にとっさに思ったのは、ああ、米村さんというのは西本願寺のご住職なんだろうと思ったんです。それで、関西の方で活発に活動されている、という話でしたので、ご住職であって、浄土真宗の仏教の歌を門徒の皆様と大合唱している、そういう方なんだろうと思っていたんです。
 それで、「すみません、石巻の仮設団地に来て、浄土真宗の仏教の歌を歌うという取り組みですか」と聞いたら、「いや、そういうわけでもないんです」と言うんですね。ただ重枝誓子さんという方が窓口だったんですが、彼女もご住職ですが、「藤田さん、私もぶっちゃけよくわかりません」という話でした。ただ、「豊原さんたちが、この人は間違いのない人だから、と推薦してきた方なので私は信じております」。というそのことばを僕は信じたんです。
 それなら間違いないだろうと来ていただいて、それで2011年の暮れが近づいてきていましたが、僕たちが真っ暗闇の中で、どうやってコミュニティを立ち上げていこうかなと悩んでいた時に、豊原さんたちが送って下さった米村さんたちと歌声喫茶を仮設団地で初めて取り組んだときにですね、いやあ、歌って素晴らしいもんだなと思ったんです。まったく見ず知らずの人間がそこに10人、20人集まってみんなで大合唱しているうちに、ワハハ、ギャハハ、ワハハ、ギャハハとあっという間に人間らしいコミュニティが芽生えてくるんですね。僕は、あれを見て、よくキラーコンテンツなんて言いますけど、立派なテレビを買ってきても、テレビのスイッチを入れて番組がなければ成り立たないわけですよね。仮設団地だとか僕たちなんかは、言ってしまえばカラーテレビの箱みたいなものであって番組がなければ成り立たない。その番組が米村さんだった。
 その米村さんを推して下さったのは豊原さんであり、皆様だった。聞真会の皆様のバックアップがあってのことだったんだということを、ずうっと後になって僕は知ったわけです。だから、僕は今日こういうチャンスをいただいて、ぜひ皆様のお顔を見て「ほんとに助けていただきましてありがとうございました」と、なんとか一度、生きているうちに感謝のことばをお伝えしたいと先ほど冒頭で言ったのはそういうことだったのです。
 ほんとうに別院様の支援がなければ、果たして今どんな状況だったのかなあと思っています。それで東北別院のボランティアセンターは大量に、肉体労働のボランティアを30人、40人単位で連れてきてくださるんです。僕たちもみんなでガレキの処理をしたり、側溝から泥を掻き出して、土嚢袋に詰めて何トンとトラックに積み込んだり、いろんな事しました。
 その時に、まだ二十代の青年だと思いますが、大学を出てご住職になるという道もあると聞きましたが、専門学校経由で、たとえばサラリーマンになったんだけども、なんかつまらないということで専門学校に行って浄土真宗のお坊さんになるというそういう道もあるんですよと、僕と一緒にガレキの処理をしながら若いお坊さんが教えてくれたんですね。そのときに僕は「いやー、僕は煩悩が千八十あるんだ」と言ったんですよ。僕みたいに俗世界にドロドロに浸かった人間はちょっと無理なんじゃないかなあと言ったときに、その人が僕と一緒に泥をかきながら、「いやあ、藤田さん、浄土真宗はそういう宗教じゃないんですよ」というんですね。「へえ、どんな宗教なの」って聞いたら、「ほかの宗派はいろいろあるかも知れないけど、うちは藤田さんみたいにどんなに(俗世界に)浸かってても、おいでおいでとオープンマインドな宗派ですから、藤田さん、おいで」って一生懸命僕を慰めてくださったんですね。「煩悩なんか千八十あっても大丈夫、一万あっても大丈夫」と彼はずっと言ってくれてました。一緒に3時間、二人で泥をかき出しながら。
 別院のみなさまとは、そういう時間を過ごして来ました。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/21 (Tue) 16:06:47
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(7)
そのときですね。別院の皆様は必ず、「藤田さん、今日はこれで帰ります。また来週来ますからね」っていう時に、「藤田さん、知らないだろうけれども石巻に西本願寺のお寺さんが一つだけあるんですよ」「えー、ほんとうですか」って僕が言ったときに「今からそこに行きます」と。別院さんは毎週来てくださったんですが、毎週我々と一緒に肉体労働をした後で必ずそこに立ち寄ってから仙台に帰っていくんです。そのお寺さんが称法寺です。実は、結論から言いますと、称法寺があって、そのお寺を守っている方は細川ご住職の実のお兄さんの息子さん、だから甥っ子の方が今副住職で、その方が、とても僕一人では称法寺を守り切れない、だから僕を助けてくれないかと和歌山県の松本さんというとても仲良しのお友達であり、お寺の息子さんにお願いをして、和歌山県から、この松本さんという方が住職として称法寺に入っています。この二人体制で称法寺を守っているということが事実としてあります。その副住職のお父様は福島の浪江町にお寺があってそこに住んでいます。一時期、福島第一原子力発電所が爆発したときに浪江町は立ち入り禁止区域になりましたので称法寺の二階にいた時期がありますけれども今は福島に戻られて、その息子さんがいま称法寺を守っている状態です。僕は、専門用語は知りませんが、その実のお兄様に当たる方が代務住職という地位で石巻の称法寺を監督していると、具体的にはその息子さんが副住職、親友の松本さんがサポート住職という体制で頑張っているというのが今の状況です。
話を聞いてきましたけれども、本堂と門徒会館、この二つだけはなんとか修復しましたと。しかし、それ以外は手付かずの状態なんですよと。「どうするんですか」と聞いたら「どうするもこうするも、僕たちもどうしていいかわからない」というのが答えでした。僕はその時に、「ああ、たいへん深い悩み、苦悩の中でみなさん、称法寺の皆さんが生きておられるな」と直感しました。そのことを今日、率直に皆様にお伝えするべきだなと思いました。美談は必要ないと思います。事実をお伝えしないと、間違って美談みたいな作り話をしますと、結局それでは話になりませんので。称法寺の皆さんが一生懸命だということは話を聞いているとわかります。いろんなものを守らなきゃと一生懸命なんですけれども答えが見えているわけじゃないんですね。どうしていいかわからない、すごく悩んでいるんだなあとすごく伝わってきました。称法寺ですけれども、あそこは

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/21 (Tue) 16:15:14
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(8)
[ホワイトボードに簡単な地図をかいて]
これは太平洋だと思ってください。津波はここから突っ込んできました。ここに北上川という一級河川があります。称法寺はこの辺にあるんです。称法寺には真正面から(海岸の方から)津波がきましたが、津波は北上川を遡上して、その川からあふれた津波が称法寺の真横からも来たんです。二方向から直撃を受けて壊滅しない方がおかしいですよね。ですからこの地域は建築基準法の38条と39条が適用されていて、更地にしたうえでもう一度新しいお寺を建てるということは絶対できません。ですから、リフォームをして本堂をきれいにするという選択肢しかなかったはずです。もし誰かが「どうして更地にしてお金を集めて新しいお寺にしないのか」と言っているとすれば、それは建築基準法の38条と39条が適用されていて、どうにもならない区域の一つなんです。これも称法寺にとっては手かせ足かせになって選択肢がどんどん狭まっていった理由の一つだろうなと思っています。それで称法寺の皆様に聞いたんですけれど、本堂と門徒会館だけはなんとか直しましたと、しかし、そのあとは手付かずの状態でどうしていいかわからないと、で、さらに驚くのがお墓ですね。門徒のお墓、これが今9年目を迎えようとしているんですが、これがめちゃくちゃのまんまなんです。津波が来たときの、あのままの状況なんです。
どうしてでしょうか、っていうことなんですね。それは門徒さんたちも生きているのか死んでいるのかわからないんです。称法寺も細かいところまで捕まえきれていないんです。門徒さんに関する名簿のようなものも津波で流されていて、自分たちも詳細を把握しきれていないことになる。門徒さんからも連絡がないと。ですから、手付かずの状態が続いていて、それが今、1年2年3年、4年5年6年と続いて、今9年目を迎えようとしているんですね。こういう苦しい状況に置かれていて、思い悩まない方が、僕はおかしいと思います。称法寺の現状は今そういう状況だと思います。
それで、これは、だからどうだっていうことではないんですが、来年10年目、東日本大震災が発生してから来年で10年目になります。おそらく、震災直後と違って、今は称法寺に光を当てようという動き、もっとはっきり言うと直接訪ねて行って、話を聴いたり、元気ですか大丈夫ですか、どんなことを今悩んでいるのとか言うこと、救いの手を差し伸べる人達がすごく減っているんではないかという気がします。称法寺さんは絶対そういうこと言いませんけども。これは僕の直感です。ですから、来年10年目ですので、もし可能であれば聞真会の皆様、あんまり深刻に受け止めないで、例えばバス1台チャーターして、ちょっと東北に行って温泉に入って美味しい魚いっぱい食べながら、称法寺に立ち寄って皆で話を聴いてあげるという取り組みはいかがなものかなあと思いました。それをお伝えしたいなと思って今日飛んできました。何でかと言いますと、僕はほかの曹洞宗とかのお坊様たちと話しましたが、ご住職という社会的な身分、これは基本的に「話を聴く」というのが仕事なんですね。しゃべる方じゃなくて、聴くっていうことが基本的な職業なんです、求められている社会的な機能が。聴かなきゃいけないわけです、むしろ。
これはカウンセラーなんかもそうなんですが、あの当時、他人の話を聴くというポジションにいた人たちは程なくして精神を病むんですね。僕も精神科のお医者さんたちといろいろお話していた時に聞いたんですが、カウンセラーあるいは精神科医を派遣しますね、そうすると戻ってきた時に、そのカウンセラーと精神科医をカウンセリングするカウンセラーと精神科医がいるんですって。カウンセリングした後ろの方にさらに一人控えていて、話を受け止めてあげたカウンセラーや精神科医をさらに、こっちにいるカウンセラーと精神科医が受け止めてあげてバックアップすると。これはね、ご住職の方々にも必要な支援態勢ではないかと思うんですね。何が言いたいかというと、称法寺の皆様は、この9年近く人様の話をずっと聴き続けてきたのだと思うんです。たぶん、もうお腹いっぱいだと思います。限界だと思うんですね。その時に、称法寺のみなさんのお話を聴いてあげる人たちが、逆に9年経ったから必要じゃないのかなあと僕は思っています。
なんでこんなことを関西まで来て言っているかというと、実は自分の経験からもそうなんですが、身近なところから来た人には話せないんですよ。つい愚痴ったりすると、その愚痴った内容が近くの人に伝わってしまうんですね、近くの人にしゃべると。だから本当のことを話せないんです。でも、ものすごく遠い所から来てくださると、多少しゃべってもこれがすぐ漏れてっていうこともない、まあ漏れても神戸で漏れるだけだからという安心感があって、話しやすいんですね。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/21 (Tue) 16:25:54
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(9)
そういうことで、今日僕はこういうお願いをしてみようかなと思って来てみました。で、称法寺なんですが、話を聞いていると若い人たちが歯を食いしばって一生懸命やっているという、あの二人が一生懸命、あんなめちゃめちゃになった地域で二人で孤軍奮闘しているのをそのまま見ているだけ、頑張っているなあ、若いなあ、優秀だなあ、立派だなあって、それでいいのかなと僕は思うんです。やっぱりここは行ってあげるべきだろうと思うんですね。こういう提案をしてしまうと提案を受けた側も、じゃあどうするこうすると大変な話になってしまいますので、僕は最近皆さんにお話しするんですけれども、難しいこと考えないで、バスを用意して、それにみんなで乗って温泉に行きましょうと言って、温泉に行って美味しいもの食べて、魚食べたり肉食べたりしながら、その流れの一環で称法寺に寄って、若い人たち頑張っているんだってねえ、なんてお話して、これ、神戸の美味しいケーキなんだけど、神戸のビーフステーキだのわいわい言いながら戻ってきて下されば大きな救いになるんじゃないかと実は思っています。今日、部外者である私が、こんなえらそうなこと言っていいんだろうかと思ったんですが、率直にお伝えしようと思って、こういう話をさせていただきました。
で、話はガラッと変わりますけれど、もう25年前になるんだそうですね、阪神淡路大震災から。それで東日本大震災が9年目を迎えようとしていて、その間にも九州福岡、朝倉地域の集中豪雨だったり、熊本大地震、千葉県の台風15号、実はですね、自慢じゃないですが台風19号、あれ実は宮城県石巻市も直撃したんですよ。僕は自宅にいました。夜12時に家を出て外の状況を見に行ったんですが、12時の時点で路上に立ったとき水はこの辺まで来ました。真っ暗ですから、状況はよくわからなかったんですが、その日は僕も寝ないで、朝まで起きて動画を撮影しようと思っていました。で、二階から動画を撮影していたんですが、ほとんどの家が床下、床上浸水、僕の家は床下浸水でしたけど、あと車がほぼみなさん全損ですね。沈んで全損扱いです。しばらくしてから「いやあ、藤田さん、9年前、津波が来て車を失って」と言うんですが、僕もそうでした。実は津波が来てから、また津波が来るかもしれないと思って、皆さんいい車は買わなかったんですよ。もう大丈夫だろうと思って二百万円、三百万円の車買って、また津波が来たら厭なので。僕は五万円の中古車を買ってきて乗っていました。皆さん大体同じような考えだったんです。このくらいの車なら、津波がもう一回来て、ダメになってもいいだろうという考えで。でも、5年経っても6年経っても7年経っても津波来ませんので皆さん気持ちがゆるんだわけですよ。じゃあ、そろそろアルファード買おうとか、俺はベンツだと最近になって買い始めたら台風19号が来て、見事に車が水没しました。石巻でもそうだったんです。で、僕の地域の人達が「いやあ、藤田さん、9年前に津波が来て、わずか9年後に台風19号が来て新車2台とも失って、こんな人生って、ありなの」って言われたわけです。でも、これが日本の現実ですから。神戸は25年経過しましたけれども、もう絶対大丈夫と言う保証はないと思っています。地震は来ないかも知れませんけど、別のものが来るかも知れません。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/21 (Tue) 16:39:49
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(10)
今日、皆様とお話したいなと思ったんですが、大きな災害が次、この神戸に来たとしたら、一つだけ、僕の経験から言うとたった一つだけ、絶対にこれは必要だというものがあります。ドカーンと災害が来たときに絶対にこれだけは必要だというものがあります。何だと思いますか。当たらなくてもいいですから、あれだと思う、これだと思う、災害が来たら絶対にこれは必要だと思うというものをコメント頂きたいんです、今。何だと思いますか。一つだけ。
[会場から]
「希望」。
あ、希望。痛い所を突かれました。まず希望ですね、一つ。ほかにはいかがですか。
「いのち」。
やっぱり、今日の集まりにふさわしいことばですね。希望といのち。ほかに必要だと思われるもの、何でしょう。
「下着」。
それはぼくですね、アッハッハー。(会場、笑い)いや、重要です。どうですか。
「水」
水、ほかにないですか。実はね、他の人は違う答えを用意していると思いますけど、僕は、絶対これは必要だと思っているものがあって、それはね、通信手段なんですよ。通信手段。ほんとは携帯電話とかスマホと言いたいんですけど、これは使えませんから。使えません、ほんとに使えません。つながらないんですよ。僕は、今で言う所の総務省の非常に位の高い方々とお話する機会がありまして、災害時に携帯電話が使えないのは命を失うことに等しいので何とかしてくれと、ずうっとお願いしているんですが、災害が発生するたびに携帯電話やスマホは必ずダウンします。もう、これはダメなんですね。何とかして通信手段を確保しなければいけない。今のところ僕が見ていて、使い物になる通信手段は二つですね。一つはアマチュア無線、これは試験は大変ですけど、実は講習会を受講するとほぼ例外なく免許いただけます。講習会経由でアマチュア無線の資格を取っていただいて、アマチュア無線の資格さえ持っていれば合法的に被災地のど真ん中から世界に向かって情報発信できるんです。
あともう一つは、これはちょっと料金がかかりますけど衛星携帯電話ですね。たとえばアメリカ軍なんかが、よく戦争の時に使います。これであれば、まずダウンすることはないと思います。 au、KDDの人たちとお話した時に、「藤田さん、やがて衛星携帯電話が一般的に普及する時代が間もなくやってくると思いますよ」という話だったんですが、全然普及しませんもんね。ですから、今は取りあえずアマチュア無線だと思います。それを皆様の中でご検討いただければと思っています。なんでこんなことを言うかというと、南三陸町なんかでも、南三陸町は震災当初誰からも、町長をはじめ誰からも連絡が返されてこないというので、NHKなんかも「南三陸町は町自体が壊滅した可能性がある」と報道したくらいなんです。ところが当時、関係者の多くは山に逃げていて、山でラジオを聞いてその話を知ったわけです。「いやあ、僕たちは全滅なんかしていない、ここで生きているんだけどなあ」という思いで聞いていたけれども、「俺たちは生きている」ということを発信できないわけですよ。これは大切なことなのでお伝えしたいことなんですけれど、災害のときに被災した中から情報が飛んでこない限り、正しい救援は出来ません。だから、被災地から情報を発信しなければいけないんです。このことを聞真会の皆様には時間をかけて話し合っていただければと思います。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/25 (Sat) 20:18:35
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(11)
で、最初は僕、通信手段だけと思っていたんですが、最近熊本やら千葉やらで災害現場に行って痛感することがあります。もう一つ、どうしても必要なものがあります。もう一つ、何だと思います ? やっぱり、これは絶対必要だなというものがあるんですよ。
[会場から]
「電気」
そうです。電気と言うよりもエアコン。東京、大阪、神戸もそうだと思いますけれども、真夏、この数年の真夏、ご住職のみなさま、夏一度もエアコンを使わずに乗り切ってきたという方、おられますか。エアコンのスイッチ入れないで耐えられます ? もう無理ですよ、はっきり言って。健康な人なら耐えられるかもしれませんが、この状況下で真夏に大災害が起きて停電してエアコンが使えないという状況が何日か続いたら、死ぬ人が出てくると思います。現実的な脅威だと思っているんです。今これをどうしても解決しなければいけない大変深刻な問題だと思っています。電気、エアコンで体力的に問題のある方を守ろうということです。2018年9月に北海道胆振地震というものがありました。死者が出た非常に巨大な地震だったんです。北海道にはコンビニエンスストアがあるんですが、セイコーマートというものがたくさんあるのをご存知ですか。セブンイレブンじゃないですよ、北海道は。北海道のセブンイレブンやら何やらはみんな停電でダウンしたんです。営業停止に追い込まれたんですけれど、セイコーマートだけはあの状況下で普通に営業したんです。みんなから「ありがとう、ありがとう」と言われたんです。どうしてセイコーマートだけが営業できたと思いますか。答え言っちゃいます。セイコーマートだけはね、災害に向けて日産自動車と技術的な提携を結んでいたそうです。日産自動車はリーフとかなんやらの電気自動車を作っていますね。それで、車がありますね、これニッサンの車、[ホワイトボードに書きながら]これがコンビニエンスストア、壁に穴をあけておくんです。この穴にケーブルを通して電気自動車と店をつなぐんです。電気自動車のエンジンをかけると、これが発電所になって電気を供給出来るという仕組みを作っていたんですね。このシステムを作り上げていたそうです。何が言いたいかというと、門徒さんたちを守るためにお寺を使う、お寺は大きいですから全部にこの仕組みを導入する必要はない、たった一部屋でいいと思うんです。一部屋にコンセントなんかを作っておいて、万が一何かがあった時は、ニッサンの車から電気をもらってエアコンをつけて、門徒さんで病気の人はうちに逃げていらっしゃいと言って門徒さんを守ると。こういう取り組みはいかがですか、という話をしたかったんですね、お金がかかる話ですが。でも、なんでこういう提案をしているかというと、僕のようにまったく知名度もなく肩書もなく、社会的身分も何にもない、どこかの馬の骨がこういうこと言っても誰も相手にしてくれないんです、はっきり言いますと。でも、聞真会の皆様はほんとに地域において社会的な信頼度をしっかり確立されている方々なので、こういう人たちがチームを組んで、こういうことを真剣に検討して、例えば一つのお寺でこういうシステムを実験してみると、こういうことを導入してやってみて、それをマスコミなどに記者会見しながら、こういうことに今取り組んでいると情報発信を繰り返せば、これは大きな力になっていくのではないかと僕は思ったんです。僕が言っても誰も聞いていないんですよ。でも、聞真会の皆様が発信してくだされば、とても大きな力になると僕は思いました。お金のかかる話ですから簡単ではないですが、こういう情報もありますと、これから来年、再来年と、別に明日取り組んで下さい、なんていうつもりはありませんので、こういうことを皆様でご検討していただければどうかなと思って、今日お話させていただきました。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/25 (Sat) 20:25:49
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(12)
2011年のときに話を戻しますが、私は一言で言って「どこの馬の骨?」でした。自分が住んでいる町の中でも、そういう扱いでした、僕は。僕が何か言ってもまったく説得力がない。誰も話を聞いてくれないんです、はっきり言って。でも、あの災害時に津波が来て家族が死んで、警察がまずいなくなるんですね。びっくりしましたけど。治安維持もしなければいけない宮城県警の警官がいないんです。何やっていたのかなあ、と思いますけど。消防もいないでしょ。自衛隊なんか何日も遅れて来るわけですから。本当に無法地帯ですよ。近くの渡波小学校には何千人も逃げてきたんです。みんな肩書も違う、もしかしたらその中には悪い奴もいたかも知れません。そういう混乱の中で、君も石巻市民だけど、僕も石巻市民、まったく同格なんですね。で、例えば、みんなが食べるおにぎりの数が足りないとかいうときに、それじゃ、これそうやって分配する時にうまくいかないわけです。すぐ争いになるわけです。まとまらない、どうしようかといった時にまとめようとしても言うことを聞いてくれない被災者もいるわけです。困ったなあ、どうしよう、どうしようという時に、一人が「そうだ、お坊さん呼ぼう」と言って、近くのお寺のご住職を呼んで来たんです。すると、さっきまでもめにもめていた人たちが、そこにご住職が来たとなると、なんとなく「大喧嘩なんかするとバチあたるんじゃないか」という雰囲気が漂いはじめるんですよ。見ていて面白かったですね。いやあ、すごいなあとか思って見ていたんです。お寺のご住職はご住職で、まったく事情説明もないまま、ただ来てくれ、来てくれと言われて「おいおい」という感じで連れてこられた。「どうしたんだ」「いや、お坊さま、大変だから来てくれ」と引きずられて来たと言うんですよ。それで連れてこられると避難所は殺気立っているわけです。これこれ、こういうわけでと聞いて「なんだ、火中の栗を拾え」っていうことだったのかと思いながら「うん、うん、うん」と双方の話を聞きながら「こうしたらどうかな、ああしたらどうかな」と提案すると、結局その場がまとまるんですよ。いや、びっくりしました僕は。

そこに宮城県警の警察官はいなかったんですよ。自衛隊員がいたわけでもないのにお坊さまが来て、人間の対立を沈静化していくわけですね。「ああ、お坊さまというのは、こういう時にまさに社会的な機能を果たすんだなあ」と、僕はそのとき、ちょっと離れて見ていました。すごいもんだなと思って見ていました。なぜかと言うと、こんなこと皆様の前で言うのはあれですけれども、ふだん、「あの、お寺の坊さんはああだ、こうだ」と我々でも結構悪口言うこともあるわけです。「ほんとにしょうがねえなー」なんていう話をしていたのに、いざ、ああいう場面になってお坊さまが出てくると、ちゃんとみんな話を聞いたという、普段あんなこと言っていても、いざ土壇場になると、みんな言うことを聞くという。お坊さまとはそういう存在だということが心の中にどこかあったんですよ。正直な話、すごいなと僕は思いました。そのご住職は、その後も何度も連れ出されました。「また、僕なの」と言いながら連れてこられて、今度はこれこれ、こういうことでもめていると言われて、また仲裁して、だから調停役なんです。紛争を処理する調停役なんです。お坊さまの社会的な機能は、まさにそこにあるんだなと思いました。あともう一つのお寺はちょっと小高い所にあったんで、そこに被災者の皆さんが逃げ込んで避難所になりました。そこでもやっぱりずいぶんもめごとがあったんですが、ご住職が「それはこうでしょ、ああでしょ」と言うとスーッともめごとが消えるんです。もし神戸で同じようなことがあった時に、聞真会の皆様の社会的な機能、役割はおそらくそこだろうと僕は思います。実はご住職の皆様からお話を聞いたんですが、ふだん皆様はこういうことをあんまり意識されていないんだそうですね。社会の中で自分はどういうふうに思われているのかとか、たとえば災害があった時に自分が出て行って「まあ、まあ、まあ」と調停する、そういうポジションに自分がいるんだということに気づいていないんだそうです。ですからいいチャンスだと思って、今日はこれをお伝えしようと思って参りました。とりとめのない話でしたけれども。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/25 (Sat) 20:33:37
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(休憩後)
(13)
甥っ子に当たる副住職も福島の浪江町で福島原発の放射能汚染といきてう信じがたい地獄に見舞われている方々です。だから、僕自身そうなんですけど、同じ地域に住んでいる者に本音を伝えると、とんでもない話になったりするんですね。距離が近いほど本当のことが言えないということがあるんです。聞真会の皆様は石巻とある程度距離が離れていますから、絶対に話しやすいということがあるんだと思います。もう一つはね、「何処から来たの」と聞いて、「神戸」っていうその一言で、何となく胸が詰まって涙がポロっと出てくることがあるんですよ。「ワーッ遠い所から来てくれたんだなあ」という、だから、遠くから「顔見に来ました」というその一言が相手を救うということがあるんですね。米村さん、お見えになりましたけど、昨年の11月に新西前沼復興団地という巨大な、被災者が集まる団地に歌声喫茶で行ったんですが、米村さんと奥様が来た瞬間に、そこに住んでるおばあちゃんが一生懸命お土産を作ったんですって、それを袋一杯に詰めて「米村さん、来てくれたんだー」っと言って抱きついて、「これ一生懸命作ったんだ」って言って「神戸の人たちに渡してほしい」って言うんですよ。僕その隣で見ていたんですが、その気持ち、実は僕もよくわかります。なんでかといいますと、2011年、3月何日だったか記憶にありませんけど、近くの鹿妻小学校という所に行ったんですが、そこに尼崎市立(市民)病院の救急車が止まっていてお医者さんと看護師さんが頑張っていたんです。3月14日か15日くらいだと思いますけれども、もう、津波が来てすぐ来たんだって言うんですよ、神戸から。ほかのお医者さんたちがまだ来ていない時に来て徹底的な治療活動をしていたんです。その時、お医者さんたちとお話した時に「いやあ、自分たちもあの時に、みんなに助けてもらったから」と言っていました。そのあともたくさん神戸の方々がいらっしゃいましたけれど、他の県から来る人たちと違って、なんて言うんでしょう、先に耐えがたい痛みを経験してきたというバックグラウンドがあるんですね。ですから、痛みや悲しみを知っている人というのは、目の前で今新しく痛みを経験している人たちに対しては格別な配慮ができる、僕はそれを見ていて、もう9年前ですけれども非常に感銘を受けましたし、驚きもしました。わあ、すごいものだなって、それは僕だけじゃなかったですね。「米村さん何処から来た? 神戸! わあ、キャーッ」と言って抱きついた、「神戸の人大好き」、と。それは僕もまったく同じです。まったく同じ思いなんです、僕も。ですから、聞真会の皆様がチームで称法寺さんを訪ねて行ってくだされば、これ以上ない支援になるんじゃないかなと思っています。若い人たちが一生懸命頑張っているみたいですし、あの人たちを立派なご住職に育て上げるも、そうでないも、周りの皆様のお力添えは絶対に必要なんじゃないかと思っています。そういう思いもあって、私は部外者なんですけれどもお話させていただいたわけなんです。
話は戻りますが、先ほど門徒さんたちを守るために、門徒さんと言っても体の弱い人、病気がちの人、昨日手術してきましたなんていう人がいっぱいいると思うんです。ドーンと災害が来て、エアコンがなくて、せっかく助かった命なのにエアコンがなくて死んじゃいました、なんていうことは絶対あると思いますよ、この日本の変な気象状況では。
そこで日産自動車と電気自動車、要するに車が発電所になるわけですね。何億円もかけないとこういうシステムは出来ないなんてことはありませんので、聞真会のお寺が全部このシステムを導入するなんていうことじゃなくて、みんなでお話して、じゃあ、ちょっと僕のお寺でやってみましょうと一人が名乗り出て、やってみて、いやあ、これすごくいいわあという話をマスコミ相手に記者会見していただければ、ものすごい情報発信力になると思うんです。これを僕が言うとダメなんですよ。なんでかというと、「どこかの馬の骨」だからですよ。ほんとなんですよ。やっぱり知名度がない、社会的肩書がない、身分がない、権力がない、こんな奴がどんないいことを言っても誰も相手にしません。社会の中できちっと信頼されている方々が手順を踏んで正しい発信をされる。これが情報の破壊力だろうと思っています。この9年、僕が痛いほど感じさせられていることですね。先ほども石巻のお寺の話をしましたが、あんなに殺伐とした大混乱の中で、お寺のご住職に裁定してもらうと言ったら多くの人たちがそのあと何も言いません。和尚さんが右と言ったら右で文句ねえよな、というわけだった。お坊さんが右と言ったら、左と言っていた人たちも右になりましたのでね。お坊さんに「いや、何言ってるんだ」なんて言ったわけでもありませんし、まとまって行きました。僕はほんと凄いなと思いました。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/25 (Sat) 20:41:05
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(14)
また、話戻りますが、[ホワイトボードに地図を書いて] 地域がありまして、海があって津波が突っ込んできたわけですが、藤田の家があって、そこから2キロくらい歩いたところに渡波(わたのは)という所があります。ここ(藤田の家から逆方向に)から1キロから2キロくらい歩いたところに鹿妻(かづま)という所があります。どちらにも小学校があります。震災から程なくして、この渡波の小学校は大体1メートルくらいのプロパンガス・ボンベが10本くらい並んで、パロマの一升炊きのガス釜も10個くらい並んでみんなでご飯炊いて食べてるんですよ、震災直後から。それで、似たような距離の鹿妻小学校に行ってみたら、何にもないんですよ。何にもない、冷たい水を飲んでる。でもこっち(渡波小学校の避難所)はご飯食べてる。炊き立てですよ、しかも。いやあ、これどうしてなのって聞いたんです。今後のために取材しようと思ったんです。そしたらですね、渡波には大きな神社があるんです。神社には氏子たちがいます。宮司さんを中心にした組織ですね。そして、先ほどのお寺、そこには浄土真宗でいえば門徒にあたる人たちが組織を作っているわけですね。こういう人たちが普段からいろんな活動をしていて、津波が来て、避難所が開設されて、食べるものがないっていう時に、普段からイベントとかお祭りとかたくさんやっているのでなんてことないわけです。その門徒さんの中にガス屋さんがいる、米屋さんもいて、電気屋さんもいる。で、「ガスボンベ欲しいんだけど」「あの人、ガス屋だから」という感じでどんどん集まってくるわけです。それでアッという間に炊き出しが始まったんですね、ところが、一方の鹿妻という地域は神社もありませんし、お寺もありません。それで中核、コアとなる組織がありませんので、つまりバラバラの個人がただ集まって地域を作っているだけなんです。こういう地域は災害が来てたくさん人が死んでも、それでも自分たちでなんとかしようということにはなりません。びっくりしました、ガッカリもしました、僕は。僕自身、釜とか薪とか一生懸命集めて、この鹿妻小学校の避難所に持って行ったんですよ。それで、「炊き出しをしたい」と言ったら鹿妻小学校のPTAという人たちが出てきたんですね。PTAの会長さんたちが来て、「あのね、小学校というのは火を焚いちゃダメなんだ」って言ったんですよ。あの状況下で、ですよ。「何言ってるんだ」って言ったんですよ、僕は。1500人の被災者が体育館で寝泊まりしていて何日も経過して水しか飲んでない状況で、みんなで団結してご飯炊けば飯食えるのにと言っても「小学校は火焚いちゃダメ、決まってるんだから、普段から」「じゃあ、今から僕が学校長に交渉して許可とってくるから、そしたら構わないな」って言ったら「何言ってるの、あなた、学校長がいいと言っても、PTA会長のあたしが許しません」。会長は女性だったんですけどね。「校庭で火使っちゃダメ、ずうっと昔から決まっているの」。それでご飯炊けなかったんですよ、最後まで。

ところが、渡波小学校の方は神社があって宮司さんがいて氏子がいて、お寺があって、ふだんの活動をそのまんま炊き出しにも応用したわけですよ。やっぱりね、普段からやってることしか人間て出来ないんだなとその時思いました。普段やってることしかできないです、人って。特別なことを特別な時にやろうとしたって絶対出来ないですよ。だから今日皆様にぜひお願いしたいなと思うのは、すでに取り組まれているのかも知れませんが、一年に一回でも構いませんのでお寺さんと門徒さんでよく話し合っていただいて、年に一回でいいので餅つきをみんなでするっていうのはどうかなと思います。炊き出しでも構いませんよ。それで一つだけ、お話をさせていただきたいんですが、「防災訓練をやるので、炊き出しで門徒さん集まってきてください」なんて言うと門徒さんたちは逃げちゃいます。防災訓練なんて言うとダメなんですよ。石巻だって「防災訓練」と言った瞬間に誰も来ませんから。だから、言葉は悪いけど騙すんですよ。「餅つきやるからおいで」とか「おはぎ作るから出ておいで」とか「鶏おこわいっぱい作るから、タダで食べにおいで」とか、だまくらかすんですね、嘘も方便ですから。そんなこと言っていいのといいますけど、いいんですよ、そんなたわいもないウソついても。ご住職様が胸にしまっとけばいいんです。門徒さんやら集めて「楽しく餅つこうよ」とか、年に一回でいいから鶏おこわ作ってみんなでワーッと食わないかとか言って、楽しい話をして活動していると女性たちが必ず集まってきてくれますので、一年に一回炊き出しが出来た、餅つきが出来たっていうのは、何やっているのかと言ったら、それは防災訓練なんですよ。僕そう思いましたもん。「防災訓練やる。何月何日に集まれ。防空頭巾被ってこい。で、炊き出しやる」なんてこと言わなくたって、餅つきやろうって言ったら、杵と臼誰が持ってくるのとか、もち米どこから持ってくるの、もち米は洗って一晩水に浸けておくんだけど、誰が洗って浸けておくのとか段取りつけなきゃいけない。そういうこと話し合うって、防災訓練そのものです。だから、お寺でどうかなあと思います。一年に一回でいいと思います。しかも楽しく、難しいこと言わない。門徒さんたちと、特にやる気のある門徒さんって絶対いるでしょ。何人か狙いをつけてね、「餅つきしたいんだけど手伝ってちょうだい」と言えば絶対うまくいきますよ。うちの団体もそうなんですけど、実は僕偉そうなこと言ってますけどね、うちの団体を一言で言ったらどういう団体かと言えば、女性たちが一生懸命頑張っている、そういう団体です。僕を筆頭に、うちに集まっている男どもはほぼダメですね。偉そうなことばっかり言ってますけど、いざという時に全然役に立たんという。女の人たちはすごいですよ。横のネットワークたくさん持っててね、粘り強いんです、女の人は。団結してくれますしね、口堅いんですよ、女の人は。男の方が簡単に口割りますからね。だけど女の人は、この人はと思った時には女性の忠誠心や口の堅さには物凄いものがあります。そういう人たちが身を粉にしてというか、ほんとに一生懸命この団体、この人のために真剣に、自分のすべてをささげてくれてる、そうやって突っ走った団体の運動の力には物凄いものがあります。だからご住職の皆様も、門徒様の中に女性ですごく聡明でやる気があってという方がいたら、一生懸命そういう人たちを取り込んでいただいて「炊き出しやりたい。おこわ炊いてみたい」とかね、「こういう楽しいイベントやりたい」とかいう提案を活発にしていただいて、門徒さんばかりじゃなくて、チラシを地域に撒いて「お餅を食べにおいで。門徒さんじゃなくてもいいから」といってやがて地域に浸透していくんですね。実際石巻では、津波が来たときはお寺さんに、門徒さんじゃない人たちもたくさん逃げて来ましたので。いろんな逃げる場所の選択肢があったにもかかわらず、やっぱりお寺なんですよ。なんとなく僕もわかるような気がします。お寺に行って、行った先で殴られる殺される、そういう危険感じませんものね。お寺に行けば助けてもらえるという感じがします。あと美味しいもの食べさせてもらえるかも知れない。お寺さんだから何かご飯出てくるだろうという安心感があるんですよ。そういう絶対的な信頼感、安心感を門徒さんじゃない人だって持っているから、石巻でも、お寺のご住職が来て裁定したら文句も言わずに従うわけですよ。そういう皆様がふだん平和な時に地域社会で炊き出しとやりたい、餅つきをやりたいと盛んに取り組まれてきて、しかも、それが地域を巻き込んで一緒にやりましょうという話になれば、お寺に対する地域の信頼感はさらに強くなるんじゃないかなと思います。「やっぱりうちのお寺さんは違うわ」っていう、この一言を貰うためにやってみる。それには、あんまり難しいことを言わなくていいんでしょうね。「餅つきをやる」この一言でいいと思います。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/25 (Sat) 20:50:18
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(15)
それから、台風15号が来た千葉県で市民の会も動きましたが、あえて地域の名前は言いませんが、行ったところ、非常に残念だったなあと思うのは、千葉県民の皆さんは「千葉県に限って台風が来るわけない」と思っていたんですよ。「災害は来ない。来たことない、今まで。だから、何にもしてこなかった」と言いましたよ。その結果どうなったか。ある地域だったんですが、うちの代表代行の鈴木が千葉に乗り込んでいって、ある地域に入ったんですよ。当然そこに町内会の会長がいて、副会長がいて、地域の役員がたくさんいます。まず、僕らは地域の役員と接触したんですね。地域には集会所があります。まず「集会所を貸して欲しい」と言いました。「何に使うんだ」と言われたので「ここをボランティアセンターの拠点にする」と言いました。そこの地域はボランティアさんが誰も来ない地域でしたから、大変なままなんです。なので、「ここをボランティアセンターにして、僕が大号令をかけてボランティアさんを投入すると。ただし地域の集会所なのに石巻の人間がそこにいて、というのはおかしいから町内会の役員を必ず一人同席するようにして欲しい」と言いました。そしたら、「そんなことは出来ない」。どうしてですかと聞くと「自分の家のガレキを片付けるのに忙しいから出来ない。ダメだ。他人のためにそんなこと出来ない。地域のためにそんなこと出来ない」。と言い出したんです。僕は「あなた町内会長でしょ」と言ったわけですよ。「そんなことは関係ない。自分優先だ」と。まあ、こんなものなんですよ。ふだんから話し合ってない、ふだんから対策してないと、こうなるんです。それでどうなったかというと、僕たちは、この地域に結局入れませんでした。地域の協力がないので。
僕たちはこういう経験をしてきましたので、実は埼玉県に本庄市という所があるんですが、ある自治会、200所帯ですかね、そこの自治会とずうっと話し合いをしていて、市民の会と埼玉県本庄市の小島南という200所帯の地域ですが、ささやかですが「仲良し協定」を結びましょう、という話し合いをしてきました。3月11日に調印式を行います。仲良し協定ですから、そんな大げさなものじゃないんですが、万が一、何かがあった時は、生きていたら、お互いに助け合おうという仲良し協定なんです。死んでいたらごめんなさいね。でも、生きていたら駆けつけます、という仲良し協定です。小島南の自治会は「嬉しい。やりましょう」ということで、とりあえず市民の会と小島南とで3月11日に小さい協定を結ぶことになりました。僕も今まで9年間蓄えてきたノウハウを隠すことなく全部、小島南に伝えて防災に強い町にしていきましょうということにしています。実は、今日なんで僕が来たかというと、もしよければ、聞真会の皆様と僕たち市民の会と小さい仲良し協定のようなものを結べないかなと思って来ました。別に、いやだと言われたらそれでいいんですよ。でも、もし、可能であるならば仲良し協定を結びたいなと思って来ました。災害の時に僕が生きていたらここまで飛んで来ます。皆さんといろんなお話をしながら、どこかお寺さんの物置でも借りて、そこに寝泊まりしながら「ああしよう、こうしよう」といろんな話をしますので、門徒さんもご住職さんも「力を貸してください、こいつの話を聞いてやってくれ」、「わかりました」と何とかなりそうな気もしますので、小さいけれど仲良し協定みたいなものを結べないかなと思って来たんですね。重機を3台用意しましょうなんていう難しい話じゃなくて、何かあったらまず来ますという、「お前が来てどうするんだ」と思うかもしれませんが、猫よりはましですから。そんな話をちょっとしたいなと思って来ました。

ここで藤田代表の話は終了しました。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/25 (Sat) 20:59:46
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続いて質疑応答に入りました。

Q1. その団体の本部はどこにあって、何人くらいの規模でいらっしゃるんですか。

A. 宮城県石巻市です。僕たちはそんなにキツキツとした団体ではありませんので、とりあえず登録している人数は20名ほどおります。ただ、団体に参加していない人たちもたくさんいるんですが、ボランティの特徴でもあるんですが、団体所属でなくても一声かけるといろんな人たちが集まってきます。たとえば自分がロウソクだとしますと、ここにパッと灯をつけると、「わあ、明かりが見える」といってたくさん集まってきて下さるというそういう感じです。

Q2. もし、ここと先ほどの「仲良し協定」ということになると 役 の方と聞真会という形がとれるということ

A. そうです。別に仲良し協定なんかなくてもいいんですよ。皆様から電話一本、地震来たら「来ない ? 」と言って下されば、すぐ来ますので、別に仲良し協定がなくてもいいんですよ。小島南とは仲良くしませんかという話が協定にしようとか、そんな話になってしまったんですが、向こうは逆にそれを地域づくりの起爆剤にしたいという感じで、それならそこに水かける必要もないな、と思って僕は「やりましょう」と言ってるんですけれども。別に、仲良し協定なくても来ます。「来い」って言ってくだされば。

Q3. 3月の震災の後、4月か5月に実際に消防団でボランティに行かしていただいて、おっしゃられたように大変な状態で、確か近くに製紙工場があったと…たくさん水を吸ったパルプがあって、スコップで持ち上げるのも非常に重かった思い出もあって、掃除が終わって帰る時、耳に触るだけでジャリジャリと砂がたくさん舞い上がっている状況だったのをあらたに思い出しているんですが、お墓のほうも確かに大変な状態で、お墓のほうの掃除に入らしてもらえるというのはお寺関係のボランティアだからこそ任せられるという感じの雰囲気を地域で持ってくださっていたのをすごく憶えています。仙台別院からのボランティアの皆さんだからこそ、お墓の掃除だってお願いできるね、という感じを持ってくださっていたのを憶えています。ほんとに地域によっていろんな事情があると思うんですが、今、石巻の皆さんにとって、これから9年目、10年目にかけて、こういうことが必要だなとか、こういう気持ちになっているというところを教えていただければと思います。

A. 結論からいいますとね、9年ですね、ですからあの当時60歳だった人は69歳、まあ70近くになるわけですね。そうすると、人は60歳のときと70歳のときでは全然違います。まず体力が落ちて病気がちになるので、その結果、気持ちがすごく弱りますね。見ている範囲では二つ、まず病気の方に向かってしまう方と、自殺をしようと決断する方と二通りあります。米村さんも来てくださった石巻の仮設団地の大森仮設団地というところで、自治会の副会長をなさっていた女性の方がいたんですが、この方が自殺をしてしまいました。彼女の生前の口癖というのが「仮設団地から絶対に自殺者を出さない」と言って頑張っていたのに、彼女が救った人がたくさんいたのに、その彼女が力尽きて首を吊って死んでしまったんです、2年前に。ガッカリしました僕も。ちょっと僕が出張で留守にしていて電話しながら「今、戻るから、ちょっと待ってて」と言って「わかった。待ってる」と言っててガチャっと電話切った後、首くくって死んでしまったんですね。ですから、僕自身も何か折れてしまったような気がします、その時に。ほんとにガッカリしてしまいました。彼女は、実は仮設団地から立派な鉄筋コンクリートの復興団地に誰よりも早く引っ越すことが出来た人だったんです。でも、彼女はこう言ったんです。「仮設団地のほうが楽しかった」と。「だって仮設団地では、隣の人が用を足している音だって聞こえるんですよ」と言ったんです、僕は。「いや、隣の人の生活音が聞こえるのは悪いことじゃない」って彼女は言いました。実は鉄筋コンクリートの復興団地の中に入ったらば、鋼鉄製の扉をガチャっと締めると何の音も聞こえませんから。でもそれは、逆に物凄い孤独だって言うんですよ。「エーッ、だってみんな仮設から復興団地にってスローガン掲げて運動してたじゃないの」と言ったらば、「いや、あの時は復興団地に入っていなかったから、そう思っていたんだけど、入ってみたら仮設団地の方がとっても賑やかで楽しくてさ、みんなボランティアさん来てワイワイ、ワイワイ。人間ってさ、人に囲まれていないとダメなんだね」と言われたんですね。いや、困ったなあと思っていたら、仮設団地で僕たちイベントを盛んにやっていましたので、いつも電話して「出てこい、出てこい」と言って復興団地から出てきなさいと言って、仮設団地でいっしょに食べたり飲んだり歌ったりして、なんとか彼女を守っていたんですけれども、僕がこっちの方に出張で来てしばらく留守にしているときに首くくってしまったんですね。たぶんこれ答えだと思いますが、人間てね、貧乏には耐えられるんですよ。ぼくがそうですから。僕、このあいだ病院に行ってMRI撮ってきたんですが、主治医と笑いながらね、先生の顔見て「先生、俺の金欠病どうなっていますかね」って聞いたら「バカなこと言ってんじゃない」って叱られたんですけれども、貧乏には耐えられるんですよ。耐えられます、人が支えててくれれば。支えてくれている人が貧乏だったら、なお嬉しいです、僕は。俺も貧乏だけど、お前も貧乏だってね。なんだ友達だな、俺たちはって、なんか盛り上がるんですね。はっきり言って幸せです、それで。だけど、孤独には耐えられない生き物なんですよ。人は貧乏には耐えられるけど、孤独には絶対耐えられません。もう何人も何人も死んでしまっていますから、自殺をして。だから、答えは隣に誰かいてあげて、声をかけてあげたり、それがたぶん答えなんだろうなと思っています。だから、こういうことをしているんですけれどもね。なにか歌を歌おうとか、みんなでご飯食べようとか、それで金持ち、貧乏人関係なくみんなでご飯食べるってすごく素敵なことですよ。いっしょに食べるって、こんなに素敵なことない。ご馳走じゃなくてもいいんですよ。ほんとにおにぎりでもいいです、みんなで作ったおにぎり、塩ふっただけでも。できれば、みんなで作ってみんなで食べるっていうのが最高ですね。こんなに美味しいものないです。だから、みんなで何かを作る、こういうのが人間にとって一番大事だなと、それは地域の中でお寺の力じゃないかと思います。たぶん地域の中で困った人もいっぱいいてね。困った人ほどお寺に来て、何かぐだぐだ言うっていうのもいろんな人から聞いたことありますけど、それもひっくるめてお寺さんだから集まってくるんだと思います。

質疑応答は以上です。

Re: 西本願寺聞真会における藤田代表の講演 - 市民の会 .

2020/07/25 (Sat) 21:13:16
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最後に聞真会会長のあいさつがありました。このお話も、阪神淡路大震災を経験された方の貴重なお話が含まれており、藤田代表の話と関連するところもありますし、阪神淡路大震災時のボランティア元年の一つの記録として採録させていただきます。以下

 挨拶が遅れましたが、今日は聞真会の新年会と研修会にお集まりいただきましてありがとうございました。私も阪神大震災を経験した者として、いろんなことを思い出しておりますが、あの時のことは忘れたいと思っていても、実は忘れられないですね。部屋の中がぐじゃぐじゃになって、机が倒れてきて、家内が私の腰にしがみついて「お父さん、怖い」言うた時にね、私があの時に飛び出して逃げてたら、今頃「この薄情者」といまだに言われるでしょうね。腰に縋りつかれていたから逃げられなかったんですね。そんな事情があるんですね。あの時逃げんでよかった。それから大変でした。
しばらくして、私らのお寺はボーイスカウトやっていますから、ボーイスカウトの、1月ですからローバー(注:ボーイスカウトというのはほぼ中学生のスカウトの呼称、小1からはビーバースカウト、小3からはカブスカウト、小6からがボーイスカウト、高1からはベンチャースカウト、18歳からがローバースカウトと呼ばれる)、大学生がみんな休みなんですよね。「ローバーみんな出てこい」言うてね、役所の体育館に集めて救援物資の仕分けをし始めたんです。その時の連絡にアマチュア無線が非常に役に立ちました。みなさん、ハンディ機持ってますからね。携帯電話はありません、電話も通じません。あのときこそ「やった」、やっとアマチュア無線が役に立ったと思いました。その頃はぼつぼつアマチュア無線が下火になってきた時代なんです。そのあと携帯が出来てアマチュア無線が下火になっていって、私たち一生懸命子どもたちに勉強さして免許取らせたんです。今の子どもはみんなスマホ持ってる。携帯電話の時代になっちゃってアマチュア無線の勉強なんてしないですよ。あの勉強すると電気的な知識も身に着くし、交信する喜びもできるしね、技術的にも高まるし、ほんとは非常にレベルの高い、いい趣味になるんですけれどもね。
ボランティアやりながらいろんなことを経験したんですけれども、避難所に救援物資を配るんですね。最初はとても、必要な物しか配れませんでした。いろんな物が来ましたけど、あの時に泉州、岸和田のほうから大量のタオル、手ぬぐいが来たんですよ。それ「配る」言うから、私が「配るな」言いました。「何でですか」。「今、避難所に水がない。洗えないから、タオル使っても二回目が使えない」。食器もそうです。有名な「たち吉」とかね、食器メーカーからどっさり来ました。でも、これ持っていっても使えないですよ。一回目使えますけど、どうやって洗うの。だから「配るな」言いました。仕分けの手伝いに来たボランティアのおばちゃんがね、「いらないんなら、私貰おうかな」。そんなこと言う。みんな手弁当で来い、言うとるのに、おばちゃん「すみません、弁当ないんですか」、「あるか、そんなもん」言うたですね。こういうわがままな、私たち、いたなと思いますね。それから大学生が来て、「ボランティアします。さして下さい。で、私がボランティアしたという証明書いてください」、「なんで?」、「ボランティアに行ったら、お前の足らん単位やるって言われたから」。「そんな単位、お前の単位のために証明書なんか書けるか。明日から来るな」と怒りましたよ。自分のことしか考えてないんですね。で、仮設へね、仮設も落ち着いたから配る。一軒の家に五人家族という想定で配ろうといろんな物を、タオルとか洗剤とか食器、食料品、全部混ぜて配ったら、電話かかってくるんですね。「うちは6人家族や、一つ足らんやないか」。偉そうに言うんです。貰っておいて上から目線。それからね、「何日の何時に持って来い。わしゃ、家におれん」。腹立つから、「取りに来い」言いましたよ。こういういろんなこと経験しました。それが今のボランティア元年になったんじゃないかと思いますね。あの時に役所に呼ばれました。「これから何が必要ですか」言うからね、「まず、事務用品揃えてください。それから、携帯電話、全機種揃えてください」言いました。そんなんで、ずいぶんいろんな体験したなと。今、ふと思い立ったんですけれども、今の話聴いてる中でね、お坊さんが本題の悩み聞いていただいたり、お坊さんのやってる [向き] ですよ、と言われたですね。これは非常に耳痛いなあと感じておりますね。私どもお坊さんはいったい何をしとったのか、中には無関心な方もおられますからね。「わしには関係ないわ」。だから、お坊さんの日頃の活動が非常に大事ではないかなということを、いま聞かしていただいて改めて実感しました。私のところボーイスカウトで、毎年年末になったら餅つきやってるんですよ。うまくやってることでもね、これはきっと役に立つんだろうなあと思いますが、私どもが被災した時に全国の友達から電話かかってきて「おまえんとこ、ボーイスカウトやってるから道具はなんでも揃ってるやろ」。確かにキャンプ道具からコンロ、テントなんでもありますけれども、そんな問題と違うんですね。何でもあるから、じゃあ使いこなせるかっていうと、そうじゃない。ふだんから練習してないと使えません。そういう練習もこれから必要かなと今お話聴かせていただきながら思い出しています。これからも皆さんがそれぞれのお寺で、自分のやるべきことを、自分のやれることを一生懸命やればいいと、そして被災されたところには励ましの旅行でもいいと思う。私も家内と仙台から山形のほうにレンタカー借りて旅行しましたよ。旅行して被災の状況見てくることも、少しはお金を落としていくこともね、必要なことかなと思っています。我々の自分の出来ることを、やれることをしっかりやるとそう思いました。今日はありがとうございました。

会長の話は以上です。

写真は研修会終了後、開かれた新年会での一コマです。歌声喫茶ですね。

以上で聞真会研修会における藤田代表の講演記録を終了します。

聞真会の皆様、お招きありがとうございました。

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